王子稲荷神社
王子稲荷神社は、東京都北区の王子駅(JR・東京メトロ南北線・都電荒川線)より北西へ徒歩5分の地に鎮座する、江戸時代に関東稲荷の総本社を名乗っていた稲荷社(後述)。
創建年代は不明だが、社伝では平安時代末期の康平年間(1058-1064年)に源頼義が当社を参拝した事になっているので、少なくともそれ以前の鎮座を主張していることになる。
神門は薬医門形式で、両脇には朱の木柵が設けられている。なお、現在の東京では薬医門型の神門を持つ神社は珍しいが、戦前の古写真を見ると、かつてはそれほどは珍しくはなかったようだ。
境内は幼稚園となっているため、幼稚園の開園時間はこの門は閉ざされ、参拝には社殿の南側から延びる脇参道を使う。
神門からこの石段の上まで、幼稚園開園時間中は入ることはできない。脇の鳥居は境内社である市杵島神社のもの。
市杵島神社は幼稚園開園時は参拝できない。市杵島神社の祠の脇にはほとんど枯れた滝があり、小さいながら太鼓石橋も架けられている。
外拝殿・内拝殿は、幣殿とともに江戸時代後期の1822年の築で、11代将軍徳川家斉が寄進したもの。裳階がある部分(屋根が二重になっている部分で、屋内は単層)が内拝殿、その前方の正面扉がある部分が外拝殿である。
外拝殿には鮮やかな彩色が施されている。
本殿は第二次世界大戦で被災したため、昭和35年に再建された。
神楽殿は昭和62年築。
社殿の脇から狐穴跡へ向かう参道が延びる。その途中にある本宮稲荷神社。
関東の稲荷の総本社
当社は江戸時代、関東(三十三ケ国)稲荷惣司を名乗った。江戸砂子温故名跡志や吾妻名勝図会といった地誌には、元禄の頃に狐がある町民に憑依し、「王子稲荷は関八州の稲荷の司、妻恋は江戸の触頭」と託宣した旨が記されている。そのためこの称号を巡って、同じく関東の稲荷惣社を自認した現・文京区の妻恋神社と訴訟となり、その結果、王子稲荷側は敗訴し、以後は関東稲荷惣司の称号の使用を禁じられた。関東なのに三十三ヶ国と称したのは、関八州だけでなく東国全体をも指していたのではと推測されるが、江戸時代の一般的な地誌は関八州の稲荷の司とも記している。
関東の稲荷の総社を名乗った神社としてはこの2社が有名であるが、他にも、中央区の鉄砲洲稲荷神社が関東総司稲荷神社、新宿区の水稲荷神社が関東稲荷惣領職という、似たような称号を称したとする資料もある。
主な年中行事
王子狐の行列
大晦日に関東一円の狐たちが近くの現・装束稲荷神社(後述)近くにあったエノキの下で装束を整えて王子稲荷神社に参詣したという伝承に基づき、大晦日から元旦にかけて「狐の行列」という行事が催される。この行事に関する詳細は「王子稲荷神社 狐の行列」の記事を参照。
凧市
全国の稲荷社の総本社である京都の伏見稲荷大社に祭神が降臨したのは和銅4年(711年)2月の初午の日とされ、そのため多くの稲荷社がこの日に祭礼を行う。王子稲荷神社では、2月の午の日に催される初午祭・二ノ午祭(・三ノ午祭)で「凧市」が立つ。凧を売る露店は少ないが、普通の露店は数多く出る。この行事に関する詳細は「王子稲荷神社 凧市」の記事を参照。
装束稲荷神社
装束稲荷神社は、北区の王子地区にある、昭和4年創建の稲荷社。現在地へは戦後の昭和29年に遷座した。この遷座の際、住民の記憶によると、「亀山の三井邸」の古い社殿を移築したという(『王子 狐の行列』)。
元旦のイベント「王子 狐の行列」においては当社から王子稲荷神社へ向けて行列が出発する。
なお、王子駅周辺には他に旧渋沢庭園 & 飛鳥山公園、正受院、旧大蔵省醸造試験所第一工場、王子神社、名主の滝公園、東京第一陸軍造兵廠遺構などがある。