下総国分寺
下総国分寺は、千葉県市川市の、京成本線の市川真間駅より北へ徒歩22分の地に位置する、真言宗豊山派の寺院。
国分寺は奈良時代の天平13年(741年)、「国分寺建立の詔」に基づいて諸国に建立された。当時の諸国の国分僧寺の正式名称は金光明四天王護国之寺であった。
現在の国分寺は古代の下総国分寺の後身で、その中心伽藍跡に立ち、境内には礎石が残る。そのため境内は下総国分寺跡として国指定史跡となっている。
なお、当寺は江戸時代には国分山金光明寺と称しており、国分寺に復唱したのは明治22年のことである。
本堂は戦前の昭和16年築。
古代国分寺の礎石を利用した国分寺址碑が立つ。
本堂から背後の墓地にかけては金堂、七重塔、講堂があった地で、各々の碑が立つ。
国指定史跡の範囲
現在の国分寺の境内は古代国分寺の境内のうち金堂・講堂・七重塔などの中心伽藍の跡である。
古代の境内は遥かに広大であり、国指定史跡「下総国分寺跡 附北下瓦窯跡」では古代の境内の一部が飛地のように指定されている。
- 現・国分寺背後の公園 地図 - 僧坊(僧の住居)跡・大衆院(寺務所)跡
- 上記の東側の公園 地図 - 大衆院跡
- 畑 地図 - 講師院跡や食堂跡
- 畑 地図 - 営繕に関わる修理所跡
- 公有地 地図 - 国分寺の瓦を焼いた北下瓦窯跡として附指定。工房もあった
明治の神仏分離令まで、国分寺は近くの国分日枝神社の別当寺であった。
下総国分尼寺跡
下総国分尼寺跡は、下総国分寺(国分僧寺)より北西へ徒歩6分の地にある。国分尼寺は奈良時代の天平13年(741年)に発せられた「国分寺建立の詔」に基づき国分僧寺と同様に各国に建立されたが、建立の実年代は不明。当初の諸国国分尼寺の正式名称は法華滅罪之寺であった。
下総国分尼寺の後身となる寺院は現存しないが、古代の国分尼寺跡は国分尼寺跡公園として整備され、下総国分尼寺跡として国指定史跡となっている。