神田明神(正式には神田神社)は、東京都千代田区の御茶ノ水駅から北へ徒歩5分の地に鎮座する、江戸時代は江戸の総鎮守として信仰を集めた神社。明治初期の一時、准勅祭社が定められた際にはその一社であった。戦前の社格は東京府(東京都)の府社に列し、現在は神社本庁の別表神社となっている。当社についての詳細は神田明神の記事を参照。
神田明神では毎年1月中旬の週末にだいこく祭(大黒祭)といった祭礼が執り行われる。だいこく祭は寒中禊がまん会、四條流庖丁儀式、祈願串成就祭で構成される。
だいこく祭
1月中旬の週末に催される神田明神のだいこく祭(大黒祭)は文字通り大黒天の祭りであるが、神仏習合の世界では大黒天は大国主命(大己貴命)と同一視された。大国(オオクニ)を音読みするとダイコクとなるからである。なお、神田明神の祭神は、一之宮が大己貴命、二之宮が少彦名命、三之宮が平将門で、創建された天平2年(西暦730年)以来の祭神は一之宮の大己貴命である。また当社の特殊事情として二之宮の少彦名命を恵比須神としている(恵比須神は七福神で唯一の純粋に日本発祥の神で、一般的には記紀神話の事代主命または蛭児命のこととされている)。
だいこく祭は寒中禊がまん会、四條流庖丁儀式、祈願串成就祭で構成される。また福笹が縁起物として授与される。なお、西日本方面では恵比須神の祭礼であるえびす講(十日戎)が1月に催され、そこで福笹が縁起物として授与されるが、東京方面ではえびす講と言えば日本橋などで10月に立つべったら市である。ただしかつてはえびす講は東京でも10月だけでなく1月にも開かれていた。
寒中禊がまん大会
神田明神の寒中禊がまん会は、新成人を中心に、男性は褌で、女性は白装束で、氷柱が入った禊場で冷水を浴びて身を清める行事。なお、寒中禊は都内では中央区の鉄砲洲稲荷神社でも1月に催される(この時期、寒中禊は全国各地で行われている)。<
まず社殿前で修祓や大祓詞奏上を行う。その後、境内を駆足一周し禊場に向かう。
禊場では身滌に入る前に、天鳥船を漕ぐ仕草をする準備運動である「鳥船(とりふね)」や、禊を司る祓戸大神の神名を唱える「雄健(おたけび)」、邪気を払う「雄詰(おころび) 」、丹田深呼吸の「気吹(いぶき)」を行う。
そして氷柱が立つ禊場にて水を被る禊を行う。なお、式次第には禊は「身滌(みそぎ)」と表記されていた。禊場の脇では囃子舞台で囃子が奏でられ、禊を盛り上げる。
禊が終わると再び鳥船以下を繰り返し、拝礼・一本締めで終了となる。
四條流庖丁儀式
四條流庖丁儀式は、古式に則り烏帽子・直垂で、庖丁と真魚箸(まなばし)のみを用い、素材には直接手を触れずに捌く儀式。
四條流庖丁道について
現地で配布された解説や四條流のウェブサイトを総合すると、四條流庖丁道は、平安時代初期に第58代光孝天皇(在位884-887年)の勅命で四條中納言の藤原山蔭(824-888年)が包丁式を定めたのに由来し、後に朝廷で四条家が家職とし、四條流を学んだ園部新兵衛尉が徳川家康に仕えたため諸国に広まった。江戸時代初期の幕府料理職頭取石井治兵衛が初代となり代々石井家が家元を継いできたが、昭和45年に家元が石井家から門弟に継承された、とのことのようだ。
しかし今ひとつ要領を得なかったので、『宮中のシェフ、鶴をさばく』(西村慎太郎著、吉川弘文館、2012年)という書籍を参照すると、だいたい以下のようであった。
まず、四條流包丁道には2つの流れがある。
1つは朝廷の中・下級官吏である地下官人の御厨子所預・高橋家の流れ。天正15年(1587年)に秀吉が高橋家に清涼殿前で鶴を用いた包丁儀式を行わせて以来、鶴包丁が儀礼化され、江戸時代は将軍から天皇へ献上された鶴を1月に天皇の前で捌くことが慣例化し、また将軍家や大名家も鶴包丁を催した。高橋家は江戸時代には四條流包丁道を家職とし、門人に伝授していた。
もう1つは堂上公家四條家の流れ。まず、四條家は藤原山蔭の末裔ではない。藤原山蔭は包丁道の祖と仰がれているが、包丁道との関わりを示す同時代の史料は無い。また、山蔭の血統は後に史料から消え不明となる。四條家はそれとは別系統で、11世紀に藤原魚名の末裔から成立し(藤原山蔭も藤原魚名の末裔だがこの四條家とは別の家系)、江戸時代からは家職を雅楽の笙とした。江戸時代初期は包丁道の家とは認識されておらず、後期には知られるようになったものの「最近になって包丁道に関わるようになったがしっかりと行っているわけではない」(1814年の『諸家々業記』)という評価であった。『御家元包丁道御縁記』(江戸時代半ば以降成立か)には「藤原魚名が日本初の包丁道の家元で、技を伝授された藤原山蔭が奥義を確立し、四條家に伝えた」とある(史料の裏付けはない)。著者の見立てでは、四條家は戦国時代に包丁道を創出するもすぐに廃し、江戸時代に家職を雅楽の笙としたとする。江戸時代後期には四条流包丁道の家元として免許を発行するようになったが、明治以降は軍人の家となった。四條流包丁道の分流に薗部流があり、宮内省大膳職包丁師範石井治兵衛はこの流れという。
なお、本書には、四條家と高橋家との関係や、明治以降の高橋家の動向については言及はなかった。
祈願串成就祭
大黒天の石像の前で祝詞等を唱えた後、巫女舞や大黒様による大黒舞が奉納され、その後、祈願串に記された奉納者の祈願の成就を祈る儀式。上述したように当社においては、大黒様は一之宮の大己貴命、恵比須様は二之宮の少彦名命に当てており、両神に扮した神職も参列している。
日曜日の15:00に始まり、15:40頃終了した。人垣のため大黒天像の正面方向から見ることは全く叶わなかった。
神田明神の大黒祭との関係は知らないが、江戸時代、正月には大黒天に扮した者が、ときには恵比須神らと連れ立って、楽器を弾き唄を唄いながら江戸の家々を巡って米銭をもらう風習があった。
この後、火打ち石を打つなど(お焚きあげを擬制?)の儀式を行った後、神職らは社務所へ帰還した。