穴八幡宮は、東京都新宿区の、東京メトロ東西線の早稲田駅より徒歩2分の位置に鎮座する、牛込の総鎮守。社殿のほか、楼門、出現殿、鼓楼なども再建されている整った神社。当社に関する詳細は穴八幡宮の記事を参照。穴八幡宮ではスポーツの日に流鏑馬が奉納される。
高田馬場流鏑馬
スポーツの日(旧称・体育の日、10月第2月曜日)には、穴八幡宮に高田馬場流鏑馬が奉納される(新宿区指定無形民俗文化財)。
神事自体は穴八幡宮で行われるが、流鏑馬の馬場は境内ではなく都立戸山公園の箱根山地区に設けられ、穴八幡宮から馬場までは騎馬が練り行列する。
社殿内で神事が執り行われる間、馬は境内で待機。
神事後、穴八幡宮から流鏑馬の会場となる戸山公園箱根山地区の馬場まで、騎馬が練り行列する。
高田馬場流鏑馬の沿革
高田馬場流鏑馬は、江戸時代中期の享保13年(1728年)、第8代将軍徳川吉宗が、世子家重の疱瘡治癒を祈願して騎射挟物を穴八幡宮に奉納したことに起源を有する。その後、高田馬場は歴代将軍の流鏑馬の馬場として整備された(ただし史跡としての高田馬場跡は、現在の高田馬場より北方である)。元文3年(1738年)には第10代将軍家治の誕生祝いに神事流鏑馬と称して執行され、以来奉納行事となった。この行事では、穴八幡宮を本陣として将軍らが参集し、式典後に馬場に趣いて流鏑馬が奉納され、その後に穴八幡に帰還すものであった。
明治維新の神仏分離令で穴八幡宮と、別当寺であった放生寺(穴八幡宮の隣に現存)が分離されると、その祭礼であった八幡祭のうち、放生会は放生寺へ、流鏑馬などは穴八幡宮へ分離されて引き継がれた。江戸時代の祭礼日は旧暦の8月15日(新暦の9月中旬頃に相当)であり、現在でも穴八幡宮の例大祭は9月中旬頃に行われているが、流鏑馬と放生寺の放生会はスポーツの日に移行している。
流鏑馬は明治維新後は時々行われる状態であったが、第二次大戦後の昭和28年(1953年)に流鏑馬神事として再興された。復活当時は、水稲荷神社参道の仮馬場で行われていた。
放生寺の放生会
高田馬場流鏑馬と同日、隣にある穴八幡宮旧別当寺の放生寺では放生会(仏教の殺生戒に基づき、供養のため魚を放す儀式)が行われる。上述のように、この放生会は江戸時代は八幡祭として、現在の穴八幡宮例大祭や高田馬場流鏑馬と一体的な祭礼であったが、明治維新の神仏分離令で分離された。
なお、江戸時代から放生会に使われていた池は、戦前に道路を拡張する際に埋められて消滅したため放生会は一時中断し、戦後に復興された。復興当初は皇居の内壕に鯉を放っていたが、これは禁止じられたため、現在は境内に小池を造ってそこに金魚を放している。
読経の中、まず僧侶が金魚を池に放つ。
次に参列者らが金魚を池に放っていく。