御霊神社
御霊(ごりょう)神社は、神奈川県鎌倉市の、JR横須賀線・江ノ島電鉄の長谷駅より西へ徒歩5分の地に位置する鎮守社。
東日本を中心に分布する、鎌倉権五郎平景政を祀る御霊・五霊・五郎社では最も代表な社の一つ。
鎌倉景政(景正)は平安後期の後三年の役(1083-1087年)に従軍した伝説的な武将で、東日本を中心に多くの伝説地や、祀る神社がある。
平安後期、景政の子の鎌倉景継が創建。鎌倉市梶原の御霊神社より勧請されたとの伝承もあり、また更にその梶原御霊神社も最初は葛原岡に創建されたとの伝承もある。
2021年頃より境内は撮影禁止となった。
本殿は1687年建立。
寛政3年(1791年)に社前の海が光り輝いたので、そこの岩の一部を運んで祀った社。それ以来溺死者が出なくなったという。
祭神
当社の現在の祭神は鎌倉権五郎景政1柱である。
これについては、鎌倉権守景成が葛原ヶ岡に祖の葛原親王を祀って葛原ノ宮や御霊社と称したのが、後に梶原に遷座して御霊社と称し、更に後の鎌倉権八郎景経の代に、景政を合祀したとの伝や、当初は村岡五郎忠通を祀ったが後にその子5名を合祀して五流宮と称したのを、住民は五霊と呼んだ、との伝もある(この子5名は、鎌倉付近を拠点とした平氏5家(大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉)の祖)。
祭礼
7月海の日 石上神社例祭
御供流しとして、由比ガ浜にて、船上の神輿とともに若者らが神体の岩があった所まで泳ぎ出て、御供(神前に供えた赤飯)を海に流す。
9月18日 御霊神社例祭
景正の命日である9月18日に、面掛行列として仮面を付けた氏子らが神輿と練り歩く。神奈川県指定無形民俗文化財。
明治維新時の神仏分離まで、成就院(鎌倉市極楽寺1-1-5)が当社の別当寺であった。
鎌倉権五郎平景政を祀る主な御霊社
東日本を中心に分布する、勇猛な坂東平氏の武将・鎌倉権五郎平景政(景正)を祀る系統の御霊社・五霊社・五郎社は、関西を中心に分布する、早良親王や八所御霊など非業の死を遂げた権力者を祀る御霊社とは別系統である。
その中で、坂ノ下(長谷)の御霊神社は、鎌倉権五郎景政を祀る御霊社としては最も代表的なものの一つ。景政を祀る御霊社で代表的な社は、その他には以下のようなものがある。
梶原御霊神社
梶原御霊神社は、建久元年(1190年)に梶原景時が景政を祀って創建し、後世には景時も合祀した。最初は葛原岡に創建されたとの伝がある。坂ノ下の御霊神社は当社を勧請したものとも伝える。
村岡御霊神社
村岡御霊神社は、天慶3年(940年)、祟道天皇(早良親王)を祀った京都・上御霊神社を、村岡五郎平良文が平将門の討伐を祈願して勧請(史実では、実際に将門に敵対したか味方したのかは不明)。後に鎌倉権五郎景政が合祀され、更に北条時頼の命で葛原親王、高見王、高望王を合祀。
平良文は坂東八平氏の祖で、当社は居城だったとされる村岡城跡の近くに鎮座する。一帯の御霊神社の総本社だとも言い、坂ノ下、梶原、長尾の御霊神社も当社の分社だとする。
長尾御霊神社
長尾御霊神社は長尾城跡に立つ。鎌倉権五郎景政の玄孫景弘が当地に居館(長尾城)を構えて長尾氏を名乗り、その長子為景が村岡御霊神社を勧請して創建。
異伝では、長尾郷に住んだ村岡忠通が死後、堀河天皇の代(在位1087-1107年)にその功績を称賛して、その子の景政5兄弟5家流の氏神「御霊神社」として祀られ、景政の死後に景政も合祀された、というものがある。
三城目御霊神社
三城目御霊神社は、上記の長尾御霊神社の異伝に関するもので、堀河天皇の代に創建された長尾御霊神社を、矢吹町で竹貫鎌田城主となったその子の鎌倉権五郎景政が勧請し、景政の死後に景政も合祀されたとする。隣の旧別当寺である景政寺は景政の墓所と伝える。
この他にも、由緒上の創建が古いのは、景政の部下であった楢島伊予守が景政を祀ったと伝える相模原市緑区佐野川の御霊神社や、仁平元年(1151年)に後三年の役の従軍者が景政祀ったと伝える横須賀市佐原の御霊神社(ただし祭神は佐原義連との異伝もある)がある。
また景政を祀る系統の御霊社で戦前の社格が最も高かったのは、大阪府の府社となった大阪市・御霊神社だが、これは16世紀末に円神社(津村神社)に鎌倉権五郎を合祀し御霊神社と改称したもの。