秩父神社
秩父神社は、埼玉県秩父市の、西武秩父駅より北へ徒歩12分、または秩父鉄道の秩父駅より南へ徒歩4分の地に位置する鎮守社。
秩父を代表する大社で、武蔵国四宮であり、戦前の社格は国幣小社に列し、現在は神社本庁の別表神社となっている。また秩父の総鎮守として知知夫国一宮を名乗る。
崇神天皇の代(BC97-BC30年)に創建。鎌倉時代の14世紀前期頃に当社に妙見宮が合祀されると、以降は秩父妙見宮として信仰を集めたが、明治維新で旧に復した(沿革の詳細は後述)。
手水舎には彫刻が多く施されている。
神馬舎は秩父夜祭で神馬2頭を繋ぐ施設。
埼玉県指定有形文化財の社殿は、1592年建立の本殿と、17世紀後期に建立された拝殿及び幣殿を連結した権現造。
拝殿正面の「子育ての虎」と本殿東側の「つなぎの龍」の彫刻は左甚五郎作と伝える。
天神地祇社は諸国一宮の神々計75座を祀る。
天神地祇社の両端に額殿が接続しており、大型の絵馬などが奉納されている。
この他の境内社としては、諏訪神社、皇大神宮、豊受大神宮、天満天神宮、禍津日社などがある。
道路を挟んで、平成21年に創建された柞(ははそ)祖霊社が鎮座する。
社殿は穂高神社(長野県安曇野市)の旧本殿で、平成21年度式年遷宮で造替されたものを移築した。
由緒沿革
崇神天皇の代(BC97-BC30年)、知知夫国の初代国造であった知知夫彦命が大神を祀った。秩父神社では現在、これを知知夫彦命の祖神とされる八意思兼命とし、これをもって当社の創建としている。なお、知知夫国とは律令制導入以前に秩父地方にあった国で、7世紀頃に无邪志国・胸刺国と合併して令制国の武蔵国となった(无邪志国と胸刺国は実際は同一の国との説もある)。知知夫国のような国は全国に144国あったというが、律令制の導入で68国(または66国2嶋)に統合された。
允恭天皇34年(445年)には知知夫彦命の子孫が知知夫彦命を合祀し、知知夫神社と称した。
鎌倉時代の嘉禎元年(1235年)に秩父神社が焼失すると、14世紀前期に妙見宮が当社に遷座し、秩父妙見宮や秩父大宮妙見宮として信仰を集めた。
この妙見宮は、平安時代の10世紀中頃、平良文が秩父に居を構えた際、信仰していた妙見寺(群馬県高崎市引間町)から秩父市内に勧請した社であった。なお、群馬県藤岡市鮎川の秩父街道沿いには、妙見寺から秩父へと遷座する途中で一時鎮座したと伝える妙見塚とその上に鎮座する妙見祠があったが、第二次大戦後の道路拡張で塚も祠も失われた。
妙見宮は秩父においては最初は宮地の音窪(または大野原の前山)にあったが、後に広見寺周辺に遷座し、更に遷座を繰り返しながら(跡地伝承地は現在、妙見七ツ井戸や妙見塚として残る)、1320年頃に秩父神社の社地に遷座したとされる。
秩父神社が妙見宮となって以降、旧来の秩父神社は神宮司社(しんぐうじしゃ、神宮地司摂社や秩父神祠とも)として境内の小祠となり地主神のようになっていたが、明治維新で本社に返り咲き(神宮司社は廃祠)、また妙見宮の祭神であった妙見菩薩は天之御中主神となった。
更に昭和28年、同年に逝去した秩父宮雍仁親王を合祀した。
なお、妙見宮の由来に関しては異伝もあり、欽明天皇の代(539-571年)に大星太神と香香背男命を真名井原に祀り、白鳳4年(675年)に疫病が流行った際、大巳貴命を中野原(現在の宮地の妙見塚)に祀り、太神と合祀し妙見宮と称した、との伝や、仲哀天皇の代(西暦192-200年)に北辰の精が秩父に降臨し後に妙見となったとの伝もある。
秩父夜祭と御旅所
毎年12月3日に行われる秩父夜祭は秩父神社の例祭であり、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭の一つだと称している。
祭礼自体は国の重要無形民俗文化財に、参加する笠鉾・屋台は国の重要有形民俗文化財に指定されており、またユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」を構成する33件の祭礼の一つともなっている。
秩父夜祭の神幸祭はこの御旅所を中心に行われる。また笠鉾・屋台の曳き揃えもここで行われる。秩父市指定史跡。
御旅所中央の亀の子石(亀は妙見菩薩の乗り物)で神幸の際に大幣を立て神事を行う。