小石川後楽園
小石川後楽園は、東京都文京区の、JR総武線などの飯田橋駅、または東京メトロの後楽園駅より徒歩8分の地に位置する大名庭園。
国指定特別史跡及び特別名勝。
寛永6年(1629年)に水戸徳川家が、中屋敷の造営に際し、付設して築造した庭園。この中屋敷は後に上屋敷となった。明治期に陸軍の東京砲兵工廠の敷地となるが、工廠移転後の昭和13年に一般公開された。
第2代水戸藩主水戸光圀が師事した朱舜水の影響で中国趣味が混入している。また藩邸の書院庭園(内庭)が残るのも特徴。
涵徳亭は飲食店等に利用されている。昭和61年の竣工で、池側は懸造となっている。
大泉水は琵琶湖を模したもの。
左側手前で、水面から顔を出している石群は竹生島。
大泉水に浮かぶ亀形の蓬莱島は神仙思想に基づくもので、弁財天の祠が立つ。
島にはかつては瀑布や砂洲もあったとされるが、元禄16年(1703年)の地震で失われた。
一つ松は、近江唐崎の一つ松を写したもの。
小廬山は、中国の名勝地・廬山に似ているのでそう命名された。
西湖の堤は、中国の名勝地・西湖の堰堤を模した堤。朱舜水の意見により造られた。
大堰川(おおいがわ)は、京都嵐山にある同名の川に因んで命名。左端にある巨岩は屏風岩。
この辺はかつては琉球ツツジが植えられていたことから琉球山と呼ばれていた。
通天橋は、紅葉の名所である京都・東福寺の通天橋に倣って命名。現在の橋は昭和37年頃に架け替えられた。
得仁堂は、儒教の聖人である伯夷・叔斉を祀って徳川光圀が建てた堂。江戸前期の1665~1673年建立。
円月橋は朱舜水が設計した石造アーチ橋。1669~1673年の架橋。
丸屋は昭和20年に空襲で焼失し、昭和41年に再建。茅葺き屋根と栗の木の柱で田舎の侘びた茶屋の佇まいを表現している。
急峻な石段が愛宕坂(男坂)で、その脇の石段が女坂。京都の愛宕山を模したと言われる。
八つ橋の周囲にはカキツバタが植えられている。見頃は4月末~5月上旬頃。
稲田は、光圀が跡取りである綱條の夫人に農民の苦労を教えるために作ったとされる。
九八屋は、江戸時代の酒亭を模したもの。これも空襲で焼失し、昭和34年に再建。
阿波の鳴門を模したとされる。
赤門の築年や由来等は不明だが、明治以降に建てられたと推測されている。
右奥に見える祠は錦春稲荷社で、江戸時代は水戸藩邸の鎮守であった。同様に、隣の東京ドームシティにある錦秋稲荷社も江戸時代は水戸藩邸の鎮守だった。
内庭は、藩邸の御殿の書院庭園で、維新までは現在の2倍の広さがあった。藩邸の建物跡は現在、東京ドームやホテルになっている。
唐門は内庭と後楽園とを隔てていた門。これも空襲で焼失したが、令和2年に再建。
内庭の池の水は寝覚滝で木曽川に落ち、木曽山沿いに流れる。寝覚滝は木曽路の寝覚めの床にちなんだ名。
木曽川は、紅葉林辺りで龍田川と名を変える。紅葉の名所の奈良・龍田川にちなんだ名称。
梅林
梅林は2~3月頃に見頃となる。
花菖蒲田
花菖蒲田のハナショウブは、6月上旬頃に見頃となる。23区内にある花菖蒲田としては大きい。
江戸時代の水戸徳川家上屋敷の敷地は全体で10万坪あったが、うち1/5の2万坪が残る。当時は東門が正門であったが、御殿の敷地は現在は東京ドームやホテルになっている。現在園内に残る内庭はこの御殿の書院庭園で、維新までは2倍の広さがあり、後楽園との間は唐門で隔てられていた。
なお、当園は岡山市の岡山後楽園とは無関係である。小石川後楽園は元から「後楽園」であった。一方、岡山側が「後楽園」の名となったのは明治時代であり、さらに岡山側が先にこの名で国の名勝となったので、その翌年に国の名勝・史跡に指定された東京の後楽園は「小石川後楽園」となった。そして岡山の「後楽園」も、後に特別名勝となる際に「岡山後楽園」と改められた。