清澄庭園
清澄庭園は、東京都江東区の、都営大江戸線及び東京メトロ半蔵門線の清澄白河駅から西へ徒歩3分の位置にある、東京都指定名勝の回遊式日本庭園。紀伊国屋文左衛門邸跡と伝える敷地は後に大名屋敷となり、明治維新後は三菱財閥の岩崎家別邸となった後に東京市に寄付され一般公開された。
池畔に配されている、全国から集めた名石が当園の特徴。またかつては隅田川の水を引き、潮の干満によって景観の変化を楽しんだ潮入庭園であった(現在は潮入は実現していない)。
集会施設。貞明皇后の葬場殿の旧材を用いて、第二次大戦終戦直後の昭和28年に再建。
かつては隅田川の水を引き入れて潮の干満による風景の変化を楽しんだ(現在は潮入は実現していない)。
磯渡りは岸沿いの池中に石を配して渡れるようにした回遊路で、当園には複数ある。
関東大震災前は、この築山の山頂付近には樹木を植えず、サツキ等を数列横に配して棚引く雲を表した。
富士山の麓には枯滝が配されている。
大泉水に張り出した涼亭は東京都選定歴史的建造物。岩崎別邸時代の明治42年に迎賓施設として建造された数寄屋建築。
自由広場には菖蒲田があり、6月上旬頃に見頃となる。
沿革
清澄庭園の敷地は元禄時代の豪商である紀伊國屋文左衛門(1669-1734年)の屋敷跡と伝えられる(ただし確証はない)。
後の享保年間(1716-1736年)には関宿藩(現在は千葉県野田市の一部)の藩主久世家の下屋敷となった。
明治11年、三菱財閥創始者の岩崎弥太郎が買い取り、明治13年に「深川親睦園」として整備。深川親睦園は関東大震災に際して住民の避難場所として機能したため、庭園の東半分(現在の清澄庭園)が東京市に寄付され、昭和7年に清澄庭園として開園した。なお、深川親睦園の残る西半分は昭和48年に東京都が購入し、昭和52年には清澄公園として普通の開放型公園に整備され開園した。
かつての深川親睦園の正門は現在の清澄公園(清澄庭園ではなく)の南西隅にあった。深川親睦園は隅田川から堀を通じて水を引いた潮入り庭園で(現在は潮入は実現されていない)、敷地だけでなく池の大きさも現在の清澄庭園の2倍ほどあった。