品川台場は、東京都港区の台場地区の、ゆりかもめ線お台場海浜公園駅より北へ徒歩13分の地にある、海上要塞の遺構。
ペリー率いる米国艦隊への備えとして東京湾に築かれたもので、江戸時代の人工海上要塞の貴重な遺構で、国の史跡に指定されている。
嘉永6年(1853年)6月、ペリー提督率いる米国海軍艦隊は浦賀に来航したが、幕府から翌年までの猶予を求められ一旦日本を去る。その間、幕府は品川沖に11基の台場を計画・着工。翌年1月にペリーが再来航した時にはかなり工事も進み、4月には第一・第三台場が、同年12月には第五・第六台場完成が完成した。第四・第七台場は建設途上で中止され、残りは着工前に中止された。
現在、国指定史跡となった第三・第六台場が残るが、未完成だった第四・第七台場は撤去され、残りは埋め立てられた。うち、第三台場は台場公園として整備され、埋立地である現在の「お台場」地区に陸繋がりにされて自由に出入りできるが、第六台場には渡る事はできない。
また、第三・第六台場とも、レインボーブリッジから俯瞰できる。レインボーブリッジは歩行者は無料で渡ることができ、南側の歩道を歩くと台場を上空から眺めることができる。
品川第三台場
1854年築造の第三台場は台場公園として整備され、埋立地である現在の「お台場」地区に陸繋がりにされて自由に出入りできる。玉置所や弾薬庫の跡が残る。国指定史跡。
現在は陸繋されている。
砲台は外壁の上に設置された。砲台は現存はしないが、模型が置いてある。
休憩所(兵舎)跡。ここに交代で兵士が詰めた。なお、『品川台場史考』によると、この休憩所跡のコンクリートの床と基礎柱は大正14年のものである。
玉置所は火薬を抜いた鉄製の砲弾を格納する施設で、各台場に2箇所設置された。『品川台場史考』によると、南西側の玉置所跡には据付竈と給水所が残り(写真)、南東側の玉置所跡には壊れた給水ポンプ場が残る。
弾薬は危険なので、石造の弾薬庫の中に格納された。計5ケ所、跡が残る。
この波止場から出入りした。奥に見える橋はレインボーブリッジ。
品川第六台場 & 鳥の島
品川第六台場も国指定史跡。ただし、渡る事はできない。
同じく海に浮かぶ鳥の島(旧東京港防波堤)は昭和初期の土木遺産。
両者とも第三台場からも見る事ができるが、レインボーブリッジからも俯瞰できる。
品川第六台場は1854年築造で、国指定史跡。
品川歴史館には品川第六台場の模型がある。
鳥の島(旧東京港防波堤)は、昭和5年(資料によっては昭和6年)に建造され、昭和13年に延長された、近代の土木遺産。
橋長798mのレインボーブリッジ(東京港連絡橋)は有料道路である首都高の一部であるが、前述のように歩道もあり、徒歩なら無料で渡る事ができる(自転車は通行不可)。開放時間は4-10月は9-21時、11-3月は10-18時である。ただし、第3月曜(祝なら翌日)、年末、東京湾大華火祭開催日などには閉鎖される。
品川第四台場跡
品川区にある天王洲アイルのシーフォートスクエアは、品川第四台場を埋め立てて造成したエリアである。今でも水路に面した石垣があるが、これは台場の石垣を再利用して積み直したもの。
(エリアガイドには不掲載。)
御殿山下台場跡
品川区には、同時期に陸上に造られた五角形の御殿山下台場(砲台)もあったが、埋め立てられ、うち半分は現在は台場小学校の敷地となっており、台場の石垣を利用したモニュメントが立てられている。モニュメントには、第二台場上にあった品川灯台のミニチュアが乗っている。台場そのものは現存しないが、跡地周囲の道路の形に残っている。
(エリアガイドには不掲載。)
大瀬埼灯台 & 安乗埼灯台
品川台場そのものとは関係ないが、台場地区にある歴史的建造物として、船の科学館に移築されている明治12年建造の大瀬埼灯台と、明治5年建造の安乗埼灯台も紹介しておく。安乗埼灯台は現存最古の木造洋式灯台である。