猿島砲台跡
猿島砲台跡は、神奈川県横須賀市の、横須賀新港の沖1.7kmにある、軍事要塞跡の残る無人島。東京湾最大の自然島で、猿島公園として整備されており、国指定史跡となっている。猿島には既に幕末の弘化4年(1847年)には3箇所の台場が設けられていたが、近代的な砲台は陸軍により明治14~17年に造営された。猿島には春日神社が鎮座し島全体がその境内であったが、砲台竣工に伴い、神社は本土に遷座した。なお、砲台は大正14年頃には海軍に移管された。
京急本線の横須賀中央駅から三笠公園の桟橋 [地図] まで徒歩15分、桟橋から船で10分で猿島に至る。
上陸地点となる島の南端には砂浜やトイレ、食事処などがある。
旧電気灯機関舎は明治28年築の煉瓦造で、現在はモルタル塗り。発電施設として現役。
第二砲台は猿島の南部にあった砲台で、1847年に大輪戸台場が設けられた地と重なっている。塁道(切り通し)沿いには煉瓦造の棲息掩蔽部(兵舎か)や弾薬庫、便所などの砲台運用施設が並ぶ。砲座はもちろん地表にあった。
南の第二砲台と北の第一砲台を結ぶ隧道は煉瓦造で、弾薬庫や電灯所などがある。
この三叉路に、島の北側にあった第一砲台の運用施設である弾薬庫(のち隧道)や棲息掩蔽部(兵舎か)がある。第一砲台の砲座はこの三叉路の南北の地表にあって、北部は1847年に亥ノ崎台場が設けられた地と重なっている。
従来は加農砲(カノン砲)が配置されていたが、昭和11年以降は高角砲(高射砲)の配置が進められた。
1253年、房総半島から鎌倉に向かう途中の日蓮が避難したと伝える洞穴。猿島の北西端にある。この後、日蓮は一旦本土に上陸するが、その跡が龍本寺に残されている。
島の北東端に1847年に築かれた卯ノ崎台場の下方の海岸へと降りるルートも設けられている。
東京湾一帯には明治期から第二次大戦終戦まで、東京湾要塞として多数の防衛施設が建造されたが、国指定史跡「東京湾要塞跡」を構成するのは現在は猿島砲台跡と千代ヶ崎砲台跡のみである。
猿島はかつては、島自体とその周囲の岩礁など9個をあわせると10島なので十島、また転じて豊島とも呼ばれていたが、1253年に当島に避難した日蓮を白猿が導いたので猿島とも呼ばれるようになったと伝える。
また対岸の木更津の伝承には、霞ヶ浦に向かっていた木更津の大法螺貝が途中で印旛沼の八千巻大蛇と争い、大蛇は大地ごと投げ飛ばされ島となったが、茨城の猿島郡の一部が流れ着いたと伝える猿島がそれだ、というものもある。
なお、猿島には縄文時代の猿島遺跡や弥生~古墳時代の猿島洞穴遺跡など、古代からの遺跡もあるが、未整備である。
春日神社
平安時代、奈良・春日大社を勧請して猿島に創建。猿島は別名を十島・豊島とも言い、従って当社もまた十島大明神とも称された。
当社は猿島全域を境内としていたが、明治17年の猿島の完全軍事要塞化とともに、安永3年(1774年)以来遥拝所が設けられていた現社地に遷座した。
社殿は昭和11年築。