普光明寺
普光明寺は、埼玉県新座市の、JR武蔵野線の新座駅より北へ徒歩20分の地に位置する、真言宗智山派の寺院。
正式には福寿山地蔵院普光明寺。
大同元年(806年)、東征帰路の坂上田村麻呂が当地にて地蔵像を安置し、律宗の寺院の十輪庵を創建。延喜3年(903年)、地蔵院と改称。正治2年、源頼家が一千体の地蔵尊を奉納して本尊とし、福寿山地蔵院普光明寺と改めた。
山門は特徴的な形状をしており、そこから伸びる表参道の先には、中門と重厚な屋根の地蔵堂が立つ。
また当地においては、江戸初期から比較的最近まで両墓制が行われており、民俗的にも興味深い。
山門は江戸中期に当たる享保年間(1716-1736年)の建立で、変則的な形状をしている。新座市指定有形文化財。
地蔵堂は1741年建立。
本尊は源頼家奉納の、運慶作の千体地蔵尊で、33年毎に開帳される。
本堂は昭和59年建立。
鐘楼も、明和年間(1764-72年)の火災以前のもの。
地蔵像は1805年造立。当時の住職が高野山中で道に迷ったが、地蔵の霊夢に導かれて抜けられたので、造立したと伝える。
普光明寺と両墓制
当寺においては、江戸初期頃から、葬送において両墓制が行われていた。これは、詣墓(まいりばか、故人の霊を祀る墓石を建てる場所)と、埋墓(うめばか、遺体を埋葬する場所)を別とする風習で、土葬が廃れ火葬が主となるに伴い消えつつある。
比較的最近まで行われていた当地の両墓制においては、普光明寺境内に詣墓が設けられ、大和田地区内の三本木と岾上(はけうえ)に埋墓が設けられた。
比較的近年まで両墓制だったので、この古い墓石群は詣墓の名残りと思われる。
明治維新時の神仏分離まで、当寺は近くにある大和田氷川神社の別当寺であった。