平林寺
平林寺は、埼玉県新座市の、JR武蔵野線の新座駅より南へ徒歩29分の地に位置する、臨済宗妙心寺派の名刹。
南北朝時代の永和元年(1375年)、岩槻(現・さいたま市内)に創建。秀吉の小田原征伐で衰退するも、家康の庇護で天正20年(1592年)に中興。江戸前期の寛文3年(1663年)、現在地へと移転。
臨済宗妙心寺派の僧侶が修行を行う専門僧堂が設置された、関東の禅寺でもかなりの有力寺院で、江戸時代に建てられた諸堂が並び、特に一直線に並ぶ総門・山門・仏殿・中門は茅葺きを維持している。また放生池や鎮守の半僧坊、壮大な大河内松平家墓所、国の天然記念物に指定された広大な雑木林などもある。
総門(惣門)は1765年建立。埼玉県指定有形文化財。
山門(三門)は江戸前期の1665年に岩槻の旧地より移築。埼玉県指定有形文化財。
仏殿は江戸前期の1664年に岩槻の旧地より移築。埼玉県指定有形文化財。
中門は江戸時代の建立。埼玉県指定有形文化財。かつては近寄ることができたが、現在は近づけなくなっている。
本堂は明治13年建立だが旧規に則ったもの。かつては公開されていたが、現在は非公開で、遠方から眺めることができるのみ。
なお、本堂の背後にある奥庭(林泉境内)は埼玉県指定名勝だが、これも非公開。
経蔵は江戸前期の1672年建立。
戴渓堂(観音堂)は江戸中期の1713年建立。独立性易(中国清朝からの渡来僧で、当寺にも招かれた)坐像とその念持仏の観音像を安置。
鐘楼は江戸中期の1750年建立。
錦鯉が泳ぐ放生池の中島には弁天社の祠(昭和28年建立)が立つ。
平林寺堀は、埼玉県指定史跡である野火止用水の一部。
野火止用水の本流は、1665年に玉川上水から東京都小平市で分岐させ埼玉県志木市の新河岸川までの25kmを開削した用水路で、1663年に平林寺が当地に移転すると、そこにも支流の用水路(平林寺堀)が引かれた。
13万坪もの広さがある境内林は、武蔵野の面影を残す雑木林で国指定天然記念物。
雑木林の散策路沿いには野火止塚や業平塚、歴代塔所もあるが、基本的には普通の雑木林である。
半僧坊感応殿
半僧坊は天狗姿の権現で、当寺の守護神。浜松・方広寺、鎌倉・建長寺、平林寺で三大半僧坊だと称している。
毎年4月17日(曜日に関わらず日程固定)に開催される半僧坊大祭では、練り行列や大般若経の転読などが行われ、多くの露店が並ぶ。
車道に面する半僧門は平成29年建立。半僧坊感応殿の正式参拝用の門で、半僧坊大祭が開催される4月17日のみ開門。
半僧坊感応殿は拝殿と本殿を連結した神社社殿風の建物。明治41年建立。
前代の半僧門は、袖塀を撤去したうえ、手水舎の裏の林の中に移築されている。
感応殿の隣りに立つ参集所は大正2年建立。
参集所は休憩所となっていて、絵馬も若干飾られている。
大河内松平家墓所
伽藍の背後に広がる、約3000坪にも及ぶ大河内松平家の壮大な墓所には、一族歴代の墓石170基余が立ち並ぶ。大河内松平家には大名家3家(幕末時点では三河吉田藩、上総大多喜藩、上野高崎藩の藩主)のほか旗本家もあった。
一族の墓のうち、松平伊豆守信綱とその正室の五輪塔は埼玉県指定史跡。松平伊豆守信綱(1596-1662年)は知恵伊豆と呼ばれ、第3代将軍・徳川家光の庇護を得て旗本から大名・老中へと出世し、また川越藩主として地域の発展に寄与した。
現在は非公開の諸堂
かつての公開範囲は現在より広かった。以下の建物は、2007年訪問時には公開されていたが、現在は非公開のもの。
本堂はその正面まで行き、堂内も覗くことができた。同様に、本堂の前方にある中門にも近づくことが可能であった。
庫裏と台所は明治40年頃の建立。ここへのルートは現在通行止め。
この建物へのルートも現在は通行止め。
横門は現在も車道からは一応見えるが、この写真のようには良く見えない。形状的に、茅葺き屋根に金属板を被せていると思われる。
睡足軒の森
平林寺の道路向かいにある睡足軒(すいそくけん)は平林寺の塔頭で、飛騨高山の古民家が移築されている。
元は財界人・大茶人の松永安左エ門が構えた別邸であったが昭和47年に平林寺に寄贈され、現在は平林寺から新座市へ無償貸与され、睡足軒の森として公開されている。