毛長神社
毛長神社は、埼玉県草加市の、日暮里・舎人ライナーの見沼代親水公園駅より南東へ徒歩16分の地に位置する鎮守社。
鳥居は東京都墨田区の水戸藩主徳川家下屋敷(現・墨田区立隅田公園)にあった鳥居を移設したもの。
現在の主祭神は毛長姫命で、女性の毛髪を祀っていたとされ、その創建伝承には幾つかある(後述)。
『埼玉の神社』等には「鳥居は江戸の水戸藩邸の屋敷鎮守の鳥居を隅田川→綾瀬川→毛長川と運搬」した旨記してある。複数ある水戸藩邸のどれかは明記していないが、水戸藩邸は、上屋敷が文京区後楽(現・小石川後楽園)、中屋敷が文京区弥生(現・東大農学部)、下屋敷が墨田区向島(現・隅田公園)にあったため、下屋敷を指すと思われる。
拝殿及び本殿覆屋は大正11年改築。
本殿は江戸中期に当たる18世紀中期の建立。
創建伝承
毛長神社には以下のような、幾つかの創建伝承の異伝が伝えられている。
- 当社の敷地はもとは万石(または万郷)長者の屋敷だったが、ある時突然暴風が吹いて屋敷と家族は毛長沼に飛ばされ沈んだ。里人は、屋敷跡に残された大神宮の御祓を、長者屋敷の稲荷社に合祀した。後日、毛長沼の岸に長者の娘の毛髪が漂着したのを箱に納めて祠へ合祀した。
- 舎人の長者の家へ新里の娘が嫁いだが離縁され、娘は沼に身投げしたが屍は発見できず、沼の主となったとされた。後日、娘の毛髪が岸に流れ着いたのでそれを祀った。後に元夫も自殺し、舎人諏訪神社として祀られた。
- 境内の裏手にあった醤油屋の娘が、たびたび起こっていた水害を鎮めるため、毛長沼に身を投げた。後日、娘の毛髪が流れついたので、民が感謝して祀った。
- 出雲より旅してきた素戔嗚尊の妹が当地で悪漢に襲われて身篭ってしまい沼に身投げした。後世の室町時代、太田道灌が当地を開拓中に毛髪を発見、調べさせると素戔嗚尊の妹のものと判明したので祀った。
また、神体の毛髪のゆくえについても幾つか異伝がある。
毛髪という不浄な物を神体とするのを良しとせず毛長沼に流し捨てたという伝承のほか、別当寺であった泉蔵院の住職が鎌倉の建長寺に異動となった際に持って行ったとも、住職が鎌倉の鶴岡八幡宮に譲り渡した(ゆえに鶴岡八幡宮は国幣社になった)とも言う。また住職が鎌倉に持って行ったため鎌倉の某所には毛長神社があるとも言う。
舎人諏訪神社との関係
毛長神社は、東京都足立区に鎮座する舎人諏訪神社と毛長川を挟んで向かい合い、手長神社が女神、舎人諏訪神社が男神とされた。
舎人諏訪神社の創建伝承の一つとして、手長神社は身投げした妻の、毛長川から回収された髪の毛を祀り、舎人諏訪神社は後に自殺したその夫を祀るが、人を神として祀ったことを憚って諏訪神社を勧請したと伝える。
また舎人諏訪神社の神(男神)と毛長神社の神(女神)は仲睦まじい夫婦神であったが、その間に毛長堀(毛長川)を開削したために別れ別れとなり、その祟りゆえかこの2社の下道を通って嫁入りすると、嫁はいずれ離縁され出戻ると言われた。
明治維新の神仏分離まで、近くにある泉蔵院(新里町313)が当社の別当寺であった。