護国寺
護国寺は、東京都文京区の、東京メトロ有楽町線護国寺駅の駅前にある、真言宗豊山派の大本山(総本山は京都の智積院)。
正式には神齢山悉地院護国寺。
江戸初期の天和元年(1681年)、大聖護国寺として創建。ほどなく「大聖」は略されるようになる。
5代将軍綱吉の代は、護国寺は幕府の祈祷寺院として、新義真言宗内で護持院(後述)に次ぐ地位にあり、この両寺は、宗門の本山であった智積院(現・智山派総本山)および長谷寺小池坊(現・豊山派総本山)を超える地位を得ていたが、綱吉の没後は次第に地位を低下させた。
江戸中期以降は、維新で護持院が廃寺となるまで、護持院の住職が護国寺の住職を兼任した。
東京都心部の本山級寺院で唯一、第二次大戦の戦禍を免れたため、戦前の堂宇がまとまって残る。
近代以降は当寺において茶道が盛んとなり、明治期から昭和初期の茶室や石灯籠が並ぶ。
惣門は元禄年間(1688-1704年)の建立。文京区指定有形文化財。
5~10万石の大名屋敷の表門形式なのは、5代将軍綱吉の御成があったゆえと伝える。明治維新までは、護国寺の隣にあった護持院の門であった。
仁王門も元禄年間(1688-1704年)の建立。文京区指定有形文化財。
不老門は昭和13年建立。簡易ながら懸造となっている。
『護国寺とぶんきょう』には京都鞍馬寺の山門に倣ったとある(鞍馬寺の隣にある由岐神社の割拝殿の誤りか)。石段下には参道の左右に水屋が2棟ある。
大師堂は1701年建立。旧薬師堂。文京区指定有形文化財。
大仏(毘盧遮那仏)は1727年、筑波山の筑波大権現・中禅寺(現・筑波山神社)に釈迦如来坐像として造立。
別当寺であった護持院が明治維新で廃寺となった際、金剛力士像・地蔵菩薩像・銅製多宝塔と共に筑波山から移された。
本堂(観音堂)は1697年建立。国指定重要文化財。
本尊は如意輪観音。
東京都区部の本山級寺院で江戸時代建造の本堂が残るのは、移築されたものを除けば護国寺のみである。
多宝塔は昭和13年建立。
小書院及び玄関は、麻布にあった旧肥前蓮池藩主家・鍋島子爵邸(明治37年竣工)の一部を、昭和3年に移築したもの。
月光殿は安土桃山期に、滋賀県の園城寺の子院・日光院の客殿として建立。国指定重要文化財。
戦前の国宝(現在の重文)指定時には、鎌倉期の建立と考えられていた。
明治25年に品川御殿山の原六郎邸に、次いで昭和2年に護国寺に移築(このとき月光殿と命名)。
なお、日光院は名古屋市天白区の寺に名跡が継承され現存する。
手前にある瓦葺きの小堂は月光殿の鐘楼。
薬師堂は1691年建立。旧一切経堂。文京区指定有形文化財。
忠霊堂は、日清戦争の戦没者の遺骨を埋葬するため明治35年に建立。
当初はその背後に銅製多宝塔(後述)が、日本初の忠霊塔として置かれていた。
鐘楼は江戸中期の建立。文京区指定有形文化財。袴腰の鐘楼だが、袴腰部分は現在は人造石洗出モルタル仕上となっている。
寺院には珍しい富士塚(音羽富士)もある。1817年に護国寺境内の別の場所に築造されたが、明治維新でその土地が公収された際に破壊され、明治18年に現在地に移築再建された。頂上には富士浅間神社の小祠がある。
現在都内で富士塚が現存する寺院は、護国寺の他には江戸川区の安養院だけである。
本坊は現代的なRC造建築であるが、その前には小さいながらも枯山水庭園や錦鯉の泳ぐ池がある。
護国寺と茶道
大正から昭和初期にかけ、実業家の高橋箒庵(高橋義雄)が、護国寺を茶道本山とせんと境内を整備した。石灯籠群や茶室群、不昧公の墓などはその名残である。
なお、前述の月光殿や不老門、多宝塔の移築・建立の手配を整えたのも高橋である。
関西系の石灯籠が約20種類まとまって立つ。大正11年寄進。
箒庵は大正14年竣工。その背後の仲麿堂は大正14年移築、三笠亭は大正14年竣工。
羅装庵は昭和23年頃の竣工。
不昧軒と圓成庵は大正15年竣工。
宗澄庵も大正15年竣工。
化生庵は昭和9年の竣工、月窓軒は同年の移築。
艸雷庵は昭和11年竣工。
特筆すべき墓所
大茶人であった不昧(第7代松江藩主・松平治郷)の墓は、昭和元年に港区の天徳寺から移設。
ただし現在の墓は、かつての姿とは大幅に違うとも言う。
他の茶人では、近代の茶人実業家である益田孝(鈍翁)や高橋義雄(箒庵)の墓もある。
墓地の一角に、音羽陸軍墓地であった軍人墓地が残されている。戦後に墓地は護国寺に譲渡され、大幅に縮小された。
この銅製多宝塔(宝篋印塔)は、筑波山の筑波大権現・中禅寺(現・筑波山神社)に瑜伽塔として1713年に造立され、明治維新時に当寺に移された。明治35年には忠霊堂の背後に移され日本初の忠霊塔として利用された。平成8年、現在地へと移設。
三条実美の墓は東京都指定旧跡。
山縣有朋の墓は、山縣家の墓所とは別にある。
この他の元勲としては、田中光顕の墓もある。
南部伯爵家の他にも旧大名家の墓があるが、どれもこのようには大きくない。
大倉財閥創設者・大倉喜八郎の墓は、伊東忠太の設計で昭和3年建立。
明治大正期の政治家である平田東助の墓も伊東忠太設計(大正15年建立)。
安田財閥創設者・安田善次郎の墓。
年中行事
節分会
護国寺の節分会では毎年、和太鼓や演歌ライブ(護国寺の近くには講談社グループのキングレコードがある)が奉納され、豆まきには有名人も参加する。
四万六千日
四万六千日(現在は7月9-10日に日程固定)とは、この日に参詣すると四万六千日間参詣したのと同じご利益があるとされる功徳日(縁日とは別モノ)。
護国寺においてもささやかながらホオズキが売られ、若干露店も出る。
護持院
護持院(筑波山中禅寺護持院)は、幕末に護国寺の隣にあった名刹。その住職は護国寺の住職を兼務したが、明治維新で廃寺となった。
延暦元年(782年)、法相宗の徳一が、常陸の筑波山に知足院中禅寺を創建。その後に天台宗となり、室町期に真言宗化した。
江戸時代になると、住職は江戸の別院「知足院」に常駐し、筑波山を支配した。別院は当初は湯島にあり、元禄元年(1688年)に神田橋・一ツ橋の間に移転し、元禄8年(1695年)には護持院と改称した(移転の際に常陸山元禄寺護持院と称したが山号・寺号は止められたとの記録もあるが、疑問視されている)。
綱吉に重用された護持院住持の隆光は大僧正に昇り、新義真言宗の僧録職に着任したため、護持院は宗門の本山である智積院(現・智山派総本山)および長谷寺小池坊(現・豊山派総本山)を超える地位を得た。宝永6年(1709年)以降、護持院住持は智積院と小池坊の交代制となった。なお、護持院の僧録職と住持の互選制は後に廃された。
享保2年(1717年)に護持院が焼失。護持院は再建を許されず護国寺の本坊に移転し、観音堂が護国寺として残り、護国寺住職は護持院住職の兼任となった。
享保7年(1722年)、護国寺の伽藍が隣接地に新造されて護持院から分離するが、宝暦8年(1757年)には再度、護持院住職が護国寺住職を兼任することとなり、明治維新を迎えた。
明治維新が起きると、護持院は筑波山の大御堂とともに廃寺となり、護国寺は独立した。
なお、護国寺は、維新の神仏分離までは今宮神社(文京区音羽1-4-4)の別当寺であった。今宮神社は明治6年に護国寺境内から現社地に遷座したが、例大祭では3年ごとに今宮神社の神輿が護国寺から神社へ渡御する。
また、当初は江戸城内に勧請された吹上稲荷神社(文京区大塚5-21-11)も、維新時には護国寺境内にあったが、明治5年に境外に遷座し、更に2度の遷座を経て現社地に鎮座した。
豊島岡墓地
護国寺に隣接する豊島岡墓地は皇族専用墓地で、天皇皇后を除く皇族が埋葬される(皇族で墓所の正式名称が◯◯陵となるのは天皇皇后のみ)。
護国寺の旧境内に明治6年に造られた墓地で、内部は通常非公開であるが、通りに面した御所風の正門は見ることができる。