4月初旬の花まつり(仏生会)については、江戸でも代表的なものの1つであった。現在でも稚児行列が行われる。
護国寺の節分会では毎年、和太鼓や演歌ライブ(護国寺の近くには講談社グループのキングレコードがある)が奉納され、豆まきには有名人も参加する。
四万六千日(現在は7月9-10日に日程固定)とは、この日に参詣すると四万六千日間参詣したのと同じご利益があるとされる功徳日(縁日とは別モノ)。
護国寺においてもささやかながらホオズキが売られ、若干露店も出る。
護持院(筑波山中禅寺護持院)は、幕末に護国寺の隣にあった名刹。その住職は護国寺の住職を兼務したが、明治維新で廃寺となった。
延暦元年(782年)、法相宗の徳一が、常陸の筑波山に知足院中禅寺を創建。その後に天台宗となり、室町期に真言宗化した。
江戸時代になると、住職は江戸の別院「知足院」に常駐し、筑波山を支配した。別院は当初は湯島にあり、元禄元年(1688年)に神田橋・一ツ橋の間に移転し、元禄8年(1695年)には護持院と改称した(移転の際に常陸山元禄寺護持院と称したが山号・寺号は止められたとの記録もあるが、疑問視されている)。
綱吉に重用された護持院住持の隆光は大僧正に昇り、新義真言宗の僧録職に着任したため、護持院は宗門の本山である智積院(現・智山派総本山)および長谷寺小池坊(現・豊山派総本山)を超える地位を得た。宝永6年(1709年)以降、護持院住持は智積院と小池坊の交代制となった。なお、護持院の僧録職と住持の互選制は後に廃された。
享保2年(1717年)に護持院が焼失。護持院は再建を許されず護国寺の本坊に移転し、観音堂が護国寺として残り、護国寺住職は護持院住職の兼任となった。
享保7年(1722年)、護国寺の伽藍が隣接地に新造されて護持院から分離するが、宝暦8年(1757年)には再度、護持院住職が護国寺住職を兼任することとなり、明治維新を迎えた。
明治維新が起きると、護持院は筑波山の大御堂とともに廃寺となり、護国寺は独立した。
なお、護国寺は、維新の神仏分離までは今宮神社(文京区音羽1-4-4)の別当寺であった。今宮神社は明治6年に護国寺境内から現社地に遷座したが、例大祭では3年ごとに今宮神社の神輿が護国寺から神社へ渡御する。
また、当初は江戸城内に勧請された吹上稲荷神社(文京区大塚5-21-11)も、維新時には護国寺境内にあったが、明治5年に境外に遷座し、更に2度の遷座を経て現社地に鎮座した。
護国寺に隣接する豊島岡墓地は皇族専用墓地で、天皇皇后を除く皇族が埋葬される(皇族で墓所の正式名称が◯◯陵となるのは天皇皇后のみ)。
護国寺の旧境内に明治6年に造られた墓地で、内部は通常非公開であるが、通りに面した御所風の正門は見ることができる。