佐倉城跡
佐倉城跡は、千葉県佐倉市の、京成本線の京成佐倉駅より南西へ徒歩17分の地に位置する平山城。
。佐倉市指定史跡かつ日本城郭協会選定日本100名城。
戦国時代の天文年間(1532-1555年)、千葉親胤の命で鹿島親幹が鹿島台地に築城。戦国時代の当地方の中心的な城郭は東3kmにある本佐倉城であったが、これは元和元年(1615年)の一国一城令で廃城となる。一方で佐倉城は慶長16年(1611年)に土井利勝が徳川家康の命で完成させて以降、佐倉藩の藩庁が置かれた。江戸中期までは藩主家の入れ替わりは激しかったが、延享3年(1746年)に堀田家が11万石で入ってからはそのまま明治維新を迎えた。明治以降は陸軍の施設となり、建物は撤去されたが中心部の敷地は保存された。
元々石垣の無い城で、本丸・二ノ丸含む中心的な地区は佐倉城址公園として整備され空堀や土塁、水堀などの一部が現存するが、外堀は大部分埋められ市街地化している。
国立歴史民俗博物館にある佐倉城の縄張模型。右手前の北惣曲輪(椎木曲輪)に国立歴史民俗博物館が立つ(灰色部分)。その上に三ノ丸、二ノ丸、本丸と続く。
大手門の外が城外、内が城内で、大手門がある東惣曲輪(大手門から三ノ丸との境まで)には、上級武士の官舎などがあった。
三ノ丸の東端に立つ三逕亭(さんけいてい)は、京都・大徳寺孤蓬庵の忘筌を模した茶室。東京の乃木神社から昭和58年移築。
三ノ丸跡から空堀と土塁を超えると二ノ丸跡で、更に空堀と土塁を超えると本丸跡。
国立歴史民俗博物館のある椎木曲輪には武家屋敷が配置されていた。
馬出しは椎木曲輪(博物館)と城郭中枢部を繋ぐ椎木門を囲むように掘られた(一番上の模型の写真でかつての姿が確認できる)。
本丸跡の外周には水堀が残されていて、枡形の出丸が2ヶ所突き出ており、必要に応じて木橋で対岸と繋いだ。水堀は椎木曲輪の外周にも若干残されている。
さらに、西の鹿島川、南の高崎川、北の印旛沼が天然の水堀の役目を果たしていた。
北側の出丸は現在、水堀の対岸から城址公園への歩道が繋げられているが、その入口にある門は、かつては城内どこかの門だったとされる。
陸軍遺構
明治6年以降第二次大戦終結まで佐倉城跡は陸軍の軍用地であり、明治42年には歩兵第五十七聯隊が転入。城址公園内には旧軍時代の訓練用階段や油脂庫などが残されている。
姥が池の近くに残る、陸軍兵士が飛び下りる訓練をした階段。