浄光明寺
浄光明寺は、神奈川県鎌倉市の、JR横須賀線・江ノ島電鉄の鎌倉駅より北へ徒歩12分の地に位置する、真言宗泉涌寺派の寺院。山号は泉谷山。
源頼朝が建てさせた堂宇の跡に、建長3年(1251年)、第6代執権北条長時が創建。かつては四宗兼学の寺であった。
境内は国指定史跡。また当寺はユネスコ世界遺産暫定リスト「武家の古都・鎌倉」(イコモスに不登録勧告され推薦取り下げ)の構成資産であった。
国指定重要文化財の五輪塔は、4月の鎌倉まつり期間中のみ公開(後述)。
山門は江戸初期に英勝寺に建立され、民間を経て、大正15年に当寺へ移築。
英勝寺では惣門または裏門だったと推定されている。鎌倉市指定有形文化財。
左にある本堂風の建物は客殿。
不動堂は江戸中期の1745年頃の建立。
この石段より先は、有料拝観エリアとなる。
有料拝観エリア
仏殿(阿弥陀堂、本堂)は江戸前期の1668年建立。鎌倉市指定有形文化財。
『鎌倉市史』では、この阿弥陀堂が二階堂の永福寺より移築したものであるとの寺伝について、1668年の移築はあり得ないので、古材を活かした大修繕かと推測している。
なお、堂内の阿弥陀三尊像は収蔵庫に移されたため、現在は堂内には三世仏が安置されている。
堂の前に立つ槇は鎌倉市指定天然記念物。
観音堂や墓地の周囲にはやぐらが並ぶ。
墓地には、明治維新まで鶴岡八幡宮の社家であった大伴氏の墓所もあり、その墓石の中には碑面に笏と鳥居が彫られた珍しいものもある。鎌倉市指定史跡。
裏山を少し登ると、網引地蔵のやぐら等がある広場に出る。
網引地蔵は、由比ヶ浜にて漁民の網にかかり引き上げられたと伝える。
広場から更に少し登ると、歌人・冷泉為相(1263-1328年)の墓塔がある。南北朝期の宝篋印塔で国指定史跡。
冷泉為相は藤原氏出身の公家で、和歌等を家業とする冷泉家を起こした。
覚賢塔
通常は、公開されているのは上記の冷泉為相墓まで。
その更に先にある覚賢塔は通常は非公開だが、4月の鎌倉まつり期間中に公開される。
なお、この五輪塔は山を隔てた多宝寺の跡にあるため、山道をもう少し歩くこととなる(雨天時は公開中止)。
覚賢塔は国指定重要文化財。
かつては忍性の墓とされていたが、昭和51年の修理で、嘉元4年(1306年)の銘がある、覚賢なる僧の骨壺が発見された。
なお、この五輪塔の更に下には多宝寺址やぐら群(市史跡)があるが、道は整備されていない。
稲荷社
当社の鎮守である稲荷社は、位置的には境内に隣接している(墓地の上あたり)が、一般参詣者は浄光明寺境内からは直接参詣できない。
参拝者はいったん山門を出て東にむかい、稲荷社の参道を北進して参拝する。
明治元年の神仏分離令まで、当寺は扇ガ谷内に鎮座する巽神社の別当寺であった。