氷川女体神社

氷川女体神社氷川女体(氷川女體、ひかわにょたい)神社は、埼玉県さいたま市の、JR武蔵野線の東浦和駅より北へ車9分の地に位置する鎮守社。
崇神天皇の代(BC97-BC30年)に創建。
明治期の当社の由緒では、かつては女体社(主神稲田姫命)として、大宮氷川神社(男体社、主神素戔嗚尊)及び中山神社(簸王子社、主神大己貴命)と3社合わせて氷川神社と称して一体信仰されていたとする(が、大宮氷川神社・中山神社の由緒には見えない)。
また江戸時代より、当社の資料に武蔵国一宮であるとする記述も出てくる(後述)。

大宮氷川神社
スポットガイド
大宮氷川神社 | 埼玉県さいたま市
武蔵国一宮・旧官幣大社・勅祭社
中山神社
スポットガイド
中山神社 | 埼玉県さいたま市
大宮と女体の間の中氷川
神橋
氷川女体神社

当社の社叢は市の天然記念物に指定されている。

鳥居
氷川女体神社
拝殿
氷川女体神社
幣殿・本殿
氷川女体神社

社殿は拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造で1667年建立。埼玉県指定有形文化財

竜神社
氷川女体神社

境内社竜神社は竜神を祀る。かつての見沼領域には多くの竜伝説があった。当社では平成13年より竜神像を使った見沼竜神まつりが催されている。

境外の鳥居
氷川女体神社

神社の西方の住宅地には鳥居 [地図] が残る。

磐船祭祭祀遺跡

かつて氷川女体神社で最も重要な祭祀は、社前に広がっていた見沼を神輿が船で渡御する御船祭であった。しかし享保12年(1727年)に見沼が干拓されて田圃になり船渡御が行えなくなった。そのため代わりに、社前の見沼の一部であった場所に柄鏡形の池を掘り、その中に島を築いて祭祀場を設け、そこに神輿が渡御する磐船祭が享保14年(1729年)より行われるようになったが、これも明治元年に廃止された。この祭祀場は現在、さいたま市の史跡に指定されている。
なお、祭神の稲田姫は戦闘(または蓮の茎)で負傷して片目となったため、当社の御手洗池の魚は片目になったとか、蓮を栽培しない、などの伝説がある

御幸道
氷川女体神社

祭祀場への陸橋(御幸道、ごこうどう)。この道の両脇も池。

祭祀場の島への石橋
氷川女体神社
祭祀場
氷川女体神社

磐船祭ではこの中央の斎域に神輿が渡御した。

外から見た祭祀場の島
氷川女体神社

武蔵国一宮?

現在、武蔵国(島嶼部除く東京都・埼玉県の全域と神奈川県東部に該当)の一宮としては、さいたま市の大宮氷川神社と東京都多摩市の小野神社が広く認識されている。
現在では、当初は小野神社が一宮で、後に大宮氷川神社が一宮となったとする考えも多いようだ。
この2社に加え、氷川女体神社も武蔵国一宮として名が挙がることがある。江戸時代の棟札や鳥居額面等に武蔵国一宮とあり、また江戸時代に書かれた由緒でも白鳳4年(7世紀後半)に勅で武蔵国一宮となった、としている。

小野神社
スポットガイド
小野神社 | 東京都多摩市
武蔵国一宮

氷川女体神社は氷川社?

『大宮氷川神社と氷川女體神社 その歴史と文化』には、当社の社名の経緯として次のような記述がある。
かつては当社は社名に「氷川」を冠せず、単に女躰社・女躰宮などと呼ばれていた。女体社は関東に広く分布する(そして氷川社ではない)。天正19年(1591年)の家康の社領寄進状で初めて「簸河(ひかわ)明神」として社名にヒカワが付き、江戸時代以降、「女躰」に「氷川」を冠するようになる。大宮氷川神社との関係の変化は不明である。なお、大宮氷川神社自体が江戸時代以降に男体社・女体社・中氷川で三社一体とされるようになった(これは大宮氷川神社・氷川女体神社・中山神社の話ではなく、大宮氷川神社境内の男体社・女体社・簸王子社の話)のは、熊野三山の修験者の影響と言われる。
氷川女体神社の江戸期以降の縁起では当初から氷川社であったかのように記してあるが、実際にはそうでなかった可能性も高い。


明治維新時の神仏分離令まで、文殊寺が当社の別当寺であった。文殊寺は明治維新まで当社に隣接していたが、維新で西方約1kmに移転した。

氷川女体神社
埼玉県さいたま市緑区宮本2-17-1 地図
アクセス:JR武蔵野線 東浦和駅より車9分
さいたま市 見沼・岩槻
エリアガイド
さいたま市 見沼・岩槻 | 埼玉県
さいたま市の東部

さいたま市以南のエリアガイド
さいたま市 浦和・大宮・西部
エリアガイド
さいたま市 浦和・大宮・西部 | 埼玉県
さいたま市の中央・西部
さいたま市 見沼・岩槻
エリアガイド
さいたま市 見沼・岩槻 | 埼玉県
さいたま市の東部
川口・蕨・戸田
エリアガイド
川口・蕨・戸田 | 埼玉県
さいたま市と東京の狭間