大宮氷川神社
大宮氷川神社は、埼玉県さいたま市の、JR大宮駅より北東へ徒歩18分、東武野田線の北大宮駅からは東へ徒歩7分に位置する大神社。
武蔵国一宮(三宮)。戦前の社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。また例祭において勅使の派遣がある勅祭社。武蔵国を中心に約280社ある氷川社の総本社でもある。
孝昭天皇3年(BC473年)、出雲市の出雲大社を勧請して創建(この件に関して出雲大社側には伝承等は多分存在しないが、島根県雲南市の斐伊神社にはこの社が大宮氷川神社の勧請元だとの社伝が残る)。景行天皇の代には東征中の日本武尊が当社で祈願した(当社の縁起については後述)。
明治15年までは神社の主体として境内に男体社(祭神は須佐之男命)、女体社(祭神は稲田姫命)、簸王子社(祭神は大己貴命)の3社殿があったが、同年に男体社に合祀され1社殿となった。2kmも続く参道並木の奥に、昭和戦前期に国費で造営した社殿が並ぶ、関東有数の大社。
表参道
一ノ鳥居は、JR東北本線のさいたま新都心駅より北に徒歩6分の位置にある [地図]。ここより境内まで1.9kmある。二ノ鳥居までは徒歩20分、境内までは徒歩27分。
参道は一ノ鳥居からしばらくは、車道(一方通行)と歩道が並走する。
参道沿いの楢姫稲荷神社 [地図] の本殿は、大宮南尋常小学校(現・大宮南小学校)の御真影奉安殿(昭和7年頃建立)を移築したもの。
なお、参道沿いにはあるものの、大宮氷川神社の摂末社ではないようだ。
JR大宮駅の中央から伸びる大宮中央通りとの交差点からは参道の中央は歩行者専用となる。ここから二ノ鳥居までの参道は「平成ひろば」として整備されている。
当社の摂末社の中ではこの天満神社のみ、境内から離れて鎮座する [地図]。
二ノ鳥居 [地図] は明治神宮の大鳥居(南参道第二鳥居)を昭和51年に移築。
大宮駅からは徒歩11分、一ノ鳥居からは徒歩20分(さいたま新都心駅からは計26分)。
参道は江戸時代は松を多く含んだ並木で、大正から昭和初期には鬱蒼とした杉並木となっていたが、現在はケヤキが主体の並木。
並木のうち古木約20本が市の天然記念物に指定されている。
三ノ鳥居近くにある当社の結婚式場・呉竹荘は、参道に面して複数の門が並ぶ。
三ノ鳥居前にある勅使斎館は昭和9年竣功。例大祭に派遣される勅使が控える館。
三ノ鳥居から楼門まで
ここから先が境内。二ノ鳥居からは徒歩7分(大宮駅からは徒歩18分)、一ノ鳥居からは徒歩27分(さいたま新都心駅からは徒歩33分)。
旧社務所は昭和9年竣功。
神楽殿は明治41年竣功。
額殿も明治41年竣功。絵馬が掛かる。
神池に架かる神橋は昭和18年竣功。奥に見えるのは楼門。
手水舎は昭和15年竣功。
楼門は昭和15年竣功。設計は昭和期の代表的な神社建築家の角南隆。
楼門内
楼門から社殿にかけての主な建物は昭和15年に造替された。
左から祓殿、舞殿、拝殿。
舞殿は昭和15年竣功。設計は角南隆。
拝殿と本殿を祝詞舎で連いだ社殿は昭和15年竣功。設計は角南隆。左端(一番奥)の建物は何か未確認。
神饌所は昭和9年竣功。
祈祷殿・授与所は平成25年竣功。
東門は大正7年竣功の神門を移築したもの。設計は大江新太郎(戦前期の著名な建築家)。
境内社
江戸時代は当社の主体として境内に鎮座した3社殿(男体社、女体社、簸王子社)は現在、境内社となって現存する。
以下のほか、当社の摂末社の中で天満神社のみ、二ノ鳥居の南に鎮座する。
摂社天津神社の本殿は旧簸王子社本殿。1667年建立でさいたま市指定有形文化財。
簸王子社は明治15年に祭神大己貴命が男体社に合祀されるまで、当社を構成する3本殿の1つであった。
末社六社は山祇神社・石上神社・愛宕神社・雷神社・住吉神社・神明神社の合殿。
摂社門客人(もんきゃくじん)神社は江戸時代は荒脛巾(あらはばき)神社と称した。本殿は旧男体社本殿で1667年建立。さいたま市指定有形文化財。
男体社は明治15年まで須佐之男命を祀り、当社を構成する3本殿の1つであったが、同年に他2社が合祀され唯一の本社本殿となった(後に門客人神社の社殿に)。
末社御嶽神社の本殿は旧女体社。1667年建立でさいたま市指定有形文化財。
女体社は明治15年に祭神稲田姫命が男体社に合祀されるまで、当社を構成する3本殿の1つであった。
摂社宗像神社は神池の島に鎮座する。社殿は明治23年建立。
神池はかつては見沼の一部であった。
末社稲荷神社の本殿覆屋は、鳥居群で屋根を支える特異な構造。
その他
蛇の池は湧き水で、神池や見沼の水源の一つ。当社は最初はここに鎮座したとも伝える。禁足地だったのを近年整備公開。
当社への最寄り駅は東武野田線の北大宮駅で、徒歩7分の距離となる(大宮駅から表参道経由だと18分)。この西参道の鳥居は当社の境内からは少し離れた位置に立つ [地図] 。
神社から大宮公園へと抜ける北参道は、白鳥池とひょうたん池に挟まれている。
北参道の先は大宮公園内であるが、その参道出入口の正面に小規模な日本庭園が設けられている。
なお、大宮公園は明治維新時に接収した当社の境内の跡に、同18年、氷川公園として整備された公園(昭和23年に大宮公園へと改称)。
主な年中行事
当社の年間行事のうち、多くの参拝者を集めるものには以下のものがある。
1月初旬 - 初詣
初詣者数は埼玉県内一なのはもちろん、関東でも有数の参拝者を集める。
2月3日 - 節分祭
節分祭では、弓の弦を鳴らす鳴弦の儀の後、撒豆式を一日に複数回行う。
2月7日 - 的神事
奉射を行う弓術儀礼。古くは流鏑馬の神事だった。
8月1-2日 - 例祭・神幸祭
8月1日の例祭には勅使の参向があり、翌2日の神幸祭では宮神輿が境内を巡行する。
大宮駅東口では「大宮夏まつり 中山道まつり」が二日間に渡って開催され、夕刻には町神輿と山車が練り歩き、特に2日には連合での巡行が行われる。
また大宮駅西口では、前日7月31日に「大宮夏まつり 西口夏まつり」が開催されて町神輿が駅前を渡御し、8月1日の「大宮夏まつり スパークカーニバル」でも町神輿がサンバと競演する。
12月10日 十日市(大湯祭)
大湯祭は祭神に神饌を献ずる神事で、それにあわせて境内に大規模な熊手市がたつ。この行事に関する詳細は「大宮氷川神社 十日市」の記事を参照。
他社に移築された本殿
さいたま市周辺の神社3社に、大宮氷川神社の本殿を移築したものと伝わる社殿が現存する。さいたま市の大間木氷川神社と上大久保氷川神社、川口市の羽盡神社である。
大間木氷川神社
大間木(おおまぎ)氷川神社の本殿は1667年建立。大宮氷川神社の本殿造替時に本殿を移築したと伝える。さいたま市指定有形文化財。
羽盡神社
羽盡(はぞろ)神社の本殿は江戸初期に大宮氷川神社の本殿を移築したと伝える。川口市指定有形文化財。
上大久保氷川神社
上大久保氷川神社の本殿は、大宮氷川神社で1596年に建立された本殿を、式年遷宮の際に譲り受けたと推定されている。さいたま市指定有形文化財。
セットで語られる神社
大宮氷川神社・氷川女体神社・中山神社
さいたま市内にあるこの3社は旧見沼の畔にあって一直線に鎮座する。大宮氷川神社は須佐之男命を祀る男体社として、氷川女体神社は稲田姫命を祀る女体社として、中山神社(旧称・中氷川神社)は大己貴を祀る簸王子社として、三社あわせて氷川神社として一体的に信仰された、と明治期の氷川女体神社の由緒にはある。
なお、この氷川女体神社・中山神社は、大宮氷川神社境内にあった女体社・簸王子社とは別物である。
大宮氷川神社・所沢中氷川神社・奥多摩奥氷川神社
大宮氷川神社、所沢中氷川神社、東京奥多摩奥氷川神社の3社は等間隔で一直線上にあり、本社・中社・奥社の形とっているとの説がある。またこの順で遷座または勧請されたとも言う。
武蔵国一宮か三宮か
現在、武蔵国(島嶼部除く東京都・埼玉県の全域と神奈川県東部)の一宮としては、大宮氷川神社と東京都多摩市小野神社が広く認識されている。
現在では、当初は小野神社が一宮で、後に大宮氷川神社が一宮となったとする考えも多いようだ。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』によると、大宮氷川神社はその社伝において崇神天皇または聖武天皇の代に一宮となったとするものの、実際は戦国時代から一宮を名乗り始めたとの見解を示している。
また江戸時代の『新編武蔵風土記稿』や『武蔵名勝図会』では、かつて武蔵国が无邪志国・胸刺国・知々夫国に三分されていた時代には小野神社・大宮氷川神社・秩父神社が各々の一宮だったが、大宝年間に三国が合併して武蔵一国となった際に小野神社が一宮になったとする(うち无邪志国と胸刺国は実際は同一の国だったとする説もある)。
武蔵国総社たる東京都府中市・大国魂神社では一宮は小野神社で、大宮氷川神社は三宮だとしているが、これは南北朝時代の『神道集』を踏襲したもの。
また氷川女体神社も武蔵国一宮とされることがある。江戸期に書かれた縁起などでは、白鳳4年(7世紀後半)に勅命で武蔵国一宮になったとしている。
大宮氷川神社の創建伝承
氷川大宮縁起
『氷川大宮縁起』では、創建の経緯として以下のような由緒を述べる。
神代、須佐之男命は、高天原から天降って諸国を巡幸中、不毛の地であった当地で苦しんで初めて過去の行いを悔い、姉・天照大神が恨みも怒りもしなかった恩徳を慕って、当地に天照大神の生魂を勧請して神楽舞を奉納した(大宮氷川神社の神楽の起源)。
また後世の神武東征において、可美真手命は神武天皇に降伏したものの、今後の展望が不明なため、子の日賢安良彦命を密かに東国に下らせた。日賢安良彦命はその地を治め、天照大神の神主を兼ね、氏族を建てて天を姓とし、後に物部と成り東国に一族が繁栄した(大宮氷川神社の社家の祖)。
孝昭天皇3年4月未日、東国開拓のため勅命で須佐之男命・稲田姫命・大己貴命が祀られた。崇神天皇の代には疫病が流行したので伊弉諾命・伊弉冉命と火の神を併せ祀り、景行天皇の代には日本武尊が参拝したので尊を相殿に祀った。
庚申神社
大宮氷川神社の創建に関連する伝説は他にも存在する。大宮駅西側に鎮座する庚申神社には以下のような伝説がある。
猿田彦命は氷川神の神体を奉じて、天孫・瓊瓊杵尊を当地に導いた。当地を気に入った瓊瓊杵尊により宮の建立を命じられた猿田彦命は出雲へ返り、須佐之男命の后・稲田姫命と御子・大己貴命を迎えて大宮氷川神社を創建した。瓊瓊杵尊はその功を賞してその地を高鼻と命名した(大宮氷川神社が鎮座するのは旧高鼻村。また猿田彦命はしばしば天狗のように鼻の高い姿で表される)。猿田彦命を死後に祀ったのが庚申神社で、元は大宮氷川神社境内にあった。
櫛引氷川神社
大宮駅北西に鎮座する櫛引氷川神社にも伝説がある。
須佐之男命とその后・稲田姫命が従神らを従えて出雲より大宮高鼻に向かう途中、現・櫛引氷川神社境内で休息し、稲田姫命が須佐之男命の髪をくしけずった(逆に須佐之男命が稲田姫命の髪をくしけずったとする書もある)。その後、沼の上に柳の木を敷して渡ったのでその地を切敷田圃と呼んだ(霧敷川などの地名が残る)。
調神社
松葉で眼を突いたとか、待つのは嫌いだからとかで松を嫌い、境内に松がないとか氏子が門松を建てないという伝説は、全国に多数分布する。浦和の調神社も同様だが、当社の場合、この伝説に大宮氷川神社を絡めている。
弟神・素戔嗚尊が大宮へ赴いて戻らず、姉神・月読命が待つのは嫌いと述べたので松の木を植えないという(角川書店『埼玉の伝説』など)。なお、記紀神話では月読命は男神であり、それを考慮してか『浦和市史 民俗編』では姉神は天照大神となっており(今度は調神社の祭神と異なる)、また加えて大宮氷川神社と調神社は仲が悪くなったとしている。
若干異なるバリエーションとしては、昔、出雲から月読姫命、素戔嗚尊、稲田姫命が当地方に至り、調神社祭神の月読姫命は素戔嗚尊と夫婦の約束をしていたが、素戔嗚命は大宮にいる稲田姫命の所に赴いて稲田姫命と結ばれ帰らなかった。月読姫命は「待つのはつらい」と言いながら待ったので以来境内には松の木を植えず、また月読姫命も真実を知って素戔嗚尊を恨むようになった(日本標準『埼玉の伝説』)、という伝承もある。
八合神社
上尾市内にも伝説が残る。この伝説では大宮氷川神社は元は上尾にあったことになっている。
昔、須佐之男命は小敷谷(現・上尾市内)に住み、ボロを着てお忍びで民の生活を巡視していたが、弁当中にその地を治める日吉一族に追い立てられて大宮に逃げたので氷川神社が移転した。須佐之男命は以後日吉一族を嫌い、願いを聞かなかったので仲が悪いという。
小敷谷には明治40年まで氷川神社があったが、同年に上尾市小泉の氷川神社(現・八合神社)に合祀されている。
なお、別伝では、小敷谷の氷川様は弁当中に大宮の氷川様と喧嘩をして追いかけられたことになっている。
創建伝承ではないが、大宮氷川神社の神が他社の神と仲が悪い話は多く、この小敷谷の氷川様や上記の調神社のほか、老袋の氷川様(川越市下老袋の氷川神社)とは戦って敗走させ、平方の氷川様(上尾市平方の八枝神社)とも喧嘩をし、また金山神社(さいたま市西区佐知川)の神とも仲が悪い、等の伝承が残っている。
大宮氷川神社と同程度以上に古いと称する氷川社
大宮氷川神社は孝昭天皇の代に創建されたと伝える氷川社の総本社であるが、当社と同程度もしくはそれより古いと称する氷川神社も存在する。
上述の社では、東京奥多摩奥氷川神社、所沢中氷川神社はこの順で大宮氷川神社へと勧請または遷座されたとの説があり、また上尾市小敷谷の氷川神社(現・八合神社に合祀)は氷川神社が大宮へ移転する前の社と伝える。
そのほか、以下のような氷川神社が孝昭天皇の代(BC475-BC393年)以前の創建と伝える。
指扇氷川神社
さいたま市西区内に鎮座する指扇氷川神社は、大宮氷川神社と同時期に創建されたとも、景行天皇40~41年(西暦110~111年)に東征途上の日本武尊が大宮氷川神社を勧請したとも伝える。
下落合氷川神社
東京都新宿区に鎮座する下落合氷川神社は、孝昭天皇の代に創建されたとも、更に上古に創建されたとも伝える。
簸川神社
東京都文京区に鎮座する簸川(ひかわ)神社は、孝昭天皇3年(BC473年)に素戔嗚尊・大己貴命・稲田姫命を祀って創建されたと伝える。