長慶寺
長慶寺は、東京都八王子市の、京王高尾線の山田駅より南東へ徒歩17分の地に位置する、臨済宗南禅寺派の寺院。山号は小比企山。
戦国時代の天文16年(1547年)創建。
大正15年に南北朝時代の南朝第3代・長慶天皇が第98代天皇に公認されたため政府によるその陵墓探しが始まったが(後述)、昭和11年に73箇所が審議されそのとき当寺の名も挙がった。しかしこれについては「長慶寺」という寺名、および当寺開基の「長慶徳應院慶林玉室居士」という位牌に附会したものであるとして退けられた。なお、鳥居龍蔵(戦前期の民俗学者・考古学者)も当寺周辺に長慶天皇陵があると思い、実際に探しに来たという。
長慶天皇の皇統加列とその陵墓の治定
南北朝時代の南朝第3代・長慶天皇(1343-1394年、在位は1368-1383年)は江戸時代より大正時代までその在位の有無に論争があったが、近代に北朝ではなく南朝が正統と確定し、またその長慶天皇の在位が確認され第98代の天皇に列した結果、歴代天皇の一員としてその陵墓を確定することが必要となった。以下がその経緯となる。
明治44年 南北朝時代は南朝が正統と決まる
朝廷では鎌倉時代後半から2系統に分かれて交互に天皇が即位していたが、1337年には建武の新政の失敗をきっかけに朝廷が南朝と北朝に分裂し、1392年に再合一するまで、各々で正統を自認する天皇が即位し、元号も各自で制定した。
1392年の南北朝合一以降は現在に至るまで北朝系の天皇が即位しており、中世においては一般に南北朝時代は北朝が正統だと考えられていた。
近世でも北朝正統論が強かったが、一方で勃興した水戸学などの影響で三種の神器を持って践祚した南朝こそが正統という考え方も次第に勢力を増した。
近代はこの傾向が更に強まり、ついには明治44年(1911年)、政府が南朝を正統と閣議決定し、明治天皇にも奏上・承認された。
大正15年 南朝第3代長慶天皇の在位が公認される
南朝第3代長慶天皇は第2代後村上天皇の第一皇子で、近世以来、その在位の有無に論争があったが、大正時代に実証的に在位が確認され、大正15年(1926年)に第98代天皇として公認された。
なお、南朝は後村上天皇の第二皇子であった第4代・後亀山天皇が、北朝第6代・後小松天皇に譲位する形で終焉している。
昭和19年 長慶天皇陵が治定される
大正15年に長慶天皇の在位が公認されたためその陵墓の確定が必要となったが、その位置は不明であった。ただし既に明治21年(1888年)には、長慶天皇陵の候補地として、和歌山県には河根御陵墓伝説地が、青森県には相馬御陵墓伝説参考地が指定済みであった(後にともに陵墓参考地)。
昭和10年(1935年)、長慶天皇陵を定めるため政府に臨時陵墓調査委員会が発足。審議された地も昭和11年時点で73箇所あり(最終的には請願地は200箇所以上となった)、調査が行われたものの結局所在地は不明で、昭和16年(1941年)、天皇が晩年を過ごした慶寿院(京都市右京区)の跡地を「擬陵」として陵墓参考地に指定し、昭和19年(1944年)には正式に陵墓「嵯峨東陵」として治定した。なお、この際に河根と相馬の陵墓参考地は指定を解除された。
南朝伝説を伝える近隣の寺社
万福寺
『片倉城・廣園寺・高宰神社の謎を巡って』によると、「日吉八王子神社由緒書」(明治13年)には、南朝第2代・後村上天皇の第六皇子である尊永親王が相模国横山庄より八王子の山田に移り、出家して尊応を名乗り、桜林御所と称された(地名「御所水」はこの御所に由来)が1434年に薨去して万福寺に葬られた、そしてその次代尊嗣王も1379年に当地で誕生して新横山殿を称し、片倉城城主・大江師親の縁族として源氏に臣籍降下して横山氏となり片倉城鎮護の住吉神社の神主となった、とあるという。
高宰神社
高宰神社の祭神は名前の伝わらない貴人だが、その上で南朝の藤原信房が有力だという。