葛飾八幡宮
葛飾八幡宮は、千葉県市川市の、京成本線の京成八幡駅より東へ徒歩4分、またはJR総武線・都営新宿線の本八幡駅より北東へ徒歩6分の地に位置する鎮守社。
戦前の社格は県社。
平安時代の寛平年間(889-898年)、宇多天皇の勅で京都の石清水八幡宮を勧請し、下総国総鎮守八幡宮として鎮座。最初の鎮座地は不知八幡森だとの伝説もある。
当社は現在においても、下総国総鎮守を名乗っている(後述)。
境内には別当寺の遺構である随神門や鐘楼が残るほか、国天然記念物のイチョウもある。
随神門は江戸後期の建立で市川市指定有形文化財。
かつては別当寺であった法漸寺の仁王門だったが、明治の神仏分離で当社の随神門となり随神(左大臣・右大臣)が収められた(仁王像は徳願寺に移された)。門の裏側には神馬像と四神像が収蔵されている。
社殿は拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造。大正2年建立。
鐘楼もまた旧別当寺・法漸寺の鐘楼として江戸時代に建立。
神木の千本イチョウ(千本公孫樹)は推定樹齢1200年。国指定天然記念物。
境内社
以下の諸社のほか、石祠などがある。
宮神輿
当社には宮神輿が4基ある。
一之間御神輿様、二之間御神輿様、三之間御神輿様は江戸期の製作で、白丁姿の若衆が揉まずに渡御する神輿と言うが、現在は飾り置き。
3年ごとの10月に催される八幡祭で巡行するのは昭和26年製作の大神輿様で、これは揉みながら渡御する。
日頃は神輿庫内に安置されガラス扉越しにしか見えないが、八幡祭の際には神輿庫は開扉される。
大神輿は昭和26年製作。
一之間神輿は応神天皇の神霊を戴く。製作年代は不詳で、1789年塗替の記録がある。
二之間神輿は神功皇后の、三之間神輿は玉依姫命の神霊を戴く。
ともに製作年代は不詳で、それぞれ1723年と1815年の塗替記録がある。
年中行事
2月 初卯祭
立春以後の初卯の日は、八幡神の誕生日として初卯祭が催され、湯花神事が斎行される。
例大祭
当社の例大祭はかつての放生会の伝統を次ぐもので、毎年9月15~20日にかけて農具市(通称ボロ市)も催される。また三年に一度、八幡祭と称して10月上旬に宮神輿が渡御する。
この行事に関する詳細は「葛飾八幡宮 例大祭」の記事を参照。
11月 市川市菊花展
11月上旬頃には、市川市菊花展の会場として参道沿いに菊花が展示される。
11月 千本イチョウのライトアップ
11月最終週頃の週末にはイチョウのライトアップが行われ、音楽が奏される。
下総国総鎮守
現在当社は下総国総鎮守を名乗っているが、当社蔵の1321年寄進の梵鐘(県文化財)には「大日本 東州下総 第一鎮守 葛餝八幡」の銘があり、また「下総州第一鎮守正八幡宮縁起」という名の縁起もあるように、葛飾八幡宮には古来から下総国総鎮守に類する名の尊称があったようだ。また明治以降の書籍には当社が下総国の「一国一社八幡宮」(全国的に分布する呼称)だとするものも散見される。
なお、『日本の神々 神社と聖地 第11巻』には当社が下総国一宮として崇敬されたと記されているが、他書でこのような記述を見かけたことはなく、第一鎮守=一宮だと拡大解釈しているように思える。
不知八幡森
葛飾八幡宮の近くには不知八幡森(しらずやわたのもり、通称・八幡の藪知らず)があり、不知森(しらずもり)神社が鎮座する。
この林に入ると出てこられないとか、祟りがあるとかの伝説があり、またこの地の由来については様々な伝説がある。現地説明板にあるものだけでも、最初に葛飾八幡宮が勧請された跡との説のほか、日本武尊の陣所跡、貴人の墓跡、平貞盛が将門討伐に際し八門遁甲陣を敷いた跡、平将門の家臣6人が泥人形になった地、などが列挙されている。
京成線の京成八幡駅及び都営新宿線・JR総武線の本八幡駅周辺には、他にも白幡天神社や水木洋子邸などがある。