小田原城跡
小田原城跡は、神奈川県小田原市の、小田原駅(JR東海道線・小田急電鉄小田原線・箱根登山鉄道・伊豆箱根鉄道大雄山線)より南へ徒歩5分の地に位置する中世~近世の平山城。財団法人日本城郭協会選定日本100名城。
15世紀中期に大森氏が八幡山(小田原高校付近の高台)に山城として築いたのが初めで、15世紀末には後北条氏の居城となった。豊臣秀吉の小田原征伐に備えて城下を囲む総構を完成させ日本最大の中世城郭となったが、天正18年(1590年)、後北条氏は秀吉に降伏し滅亡。江戸時代は規模縮小されて小田原藩の藩庁となり、明治3年に廃城となった。
本丸と二ノ丸を中心に小田原城址公園として整備されており、国指定史跡となっている。
城址公園の北東端よりの景観。この写真より右の堀は現在は埋め立てられ失われている。
この堀は、藩主の居館や役所のあった二の丸と、上級武士の屋敷が並んだ三の丸を分かつ内堀であった(外堀は埋め立てられ、現存しない)。
二の丸の石垣は往時は今より高かったが、大正12年の関東大震災で崩落し、昭和初期に以前より低く復旧された。
二の丸隅櫓は、監視や武具保管に当たった平櫓(江戸時代、小田原城の櫓は二重櫓5棟と平櫓1棟があった)。昭和9年に江戸時代より一回り小さく再建。
なお、右に、二の丸へ架かる赤い橋(学橋)が見えるが、江戸時代にはこの位置に橋はなかった。
馬出門(うまだしもん)は、三の丸から登城する大手筋(正規ルート)の門。その前にめがね橋(旧称・馬出門土橋)が架かる。
馬出門は1672年に枡形門に改造され、廃城で廃止となり、平成21年に復元された。石垣と土塁の枡形と、馬出門と内冠木門で構成される。
馬出門を出ると馬屋曲輪。江戸時代には馬屋と大腰掛(登城者待機所兼番屋)があった。
二の丸観光案内所は小田原町立図書館として昭和8年竣工。二の丸ではなく馬屋曲輪にある。
銅門(あかがねもん)は二の丸の表門。住吉堀で隔てられた馬屋曲輪からは住吉橋が架かる。住吉橋は平成元年の、銅門は平成9年の再建。
住吉堀には障子堀も後北条氏時代と江戸初期に造られたが、1632年よりの改造で失われた。
銅門は石垣と内仕切門と櫓門で枡形を形成している。
御茶壺(おちゃつぼ)曲輪は、馬屋曲輪と二の丸から住吉堀で隔てられた曲輪。
江戸時代、将軍には京都宇治より茶が献上されていた。江戸城からの使者は、往路は空の壺を携え東海道を上り、復路は茶を詰めた壺を持って湿気の低い中山道を下った。御茶壺曲輪には、この茶壺を保管する御茶壺蔵と番所(番人の詰所)などがあった。
御茶壺橋(小峰橋)は、南から御茶壺曲輪に架かる橋で、江戸時代は木橋であった。
現在はこの橋から直接二の丸へと進めるよう水堀(奥に見える松並木辺り)が埋め立てられているが、江戸時代は水堀で阻まれ進めなかった。
御茶壺橋の脇にある御感(ぎょかん)の藤は小田原市指定天然記念物。樹齢200年。
江戸時代は二の丸に鉢植えされていたが、維新後に城外に渡り、大正11年に現在地に移植された。城外にある間、大正天皇がその花に感嘆したことがあるため「御感の藤」と呼ばれる。
南曲輪は、御感の藤の対岸で、本丸の南側に位置する。
江戸時代、二の丸には、藩主の居館と藩政の政庁を兼ねた大規模な「二の丸御屋形」があった。
明治以降は、明治34年に御用邸が建ったが関東大震災で全壊。昭和4年~平成4年には小田原第二尋常高等小学校(戦後は城内小学校)が置かれた。
NINJA館(歴史見聞館)は、昭和4年竣工の旧小田原第二尋常高等小学校講堂を活用。
二の丸に生えるビャクシンは小田原市指定天然記念物。
二の丸に生えるイヌマキも小田原市指定天然記念物。
二の丸から本丸への入口には常盤木門が立ち、その前には本丸東堀が掘られ、常盤木橋が架けられている。
本丸東堀は現在は花菖蒲園となっている。
常盤木門(ときわぎもん)は本丸の正門。
1706年に渡櫓門に南多聞櫓と北多聞櫓が付随する枡形門形式で再建され、明治の廃城で撤去されたたが、昭和46年に渡櫓門と南多聞櫓が再建された。
江戸時代は倉庫や武器庫として使用され、現在は常盤木門SAMURAI館として武具甲冑を展示している。
本丸には北条氏時代はその居館があり、江戸時代は天守のほか、1703年までは将軍宿泊用の本丸御殿もあった。現在は、昭和35年に復興された天守が立つ。
現在の天守閣は、1706年再建の4代目天守をモデルに、昭和35年にRC造で復興されたもの。
三重四階の天守櫓に付櫓と渡櫓を付した複合式天守閣で、歴史資料の博物館として利用されている(館内は撮影禁止)。
本丸に生える巨松(おおまつ)は小田原市指定天然記念物。樹齢400年。戦国時代より本丸にあった7本の松の最後の1本。
本丸の北側に位置する御用米曲輪には、江戸城に送る御用米の米蔵が立っていた。
石垣ではなく土塁で囲まれており、戦国時代の姿を残している。また、後北条氏が16世紀後半に造った庭園の跡も発見された。
本丸の南側にある小峯曲輪には、明治27年より報徳二宮神社が鎮座する。この曲輪の名称は江戸後期よりのもので、前期は雷曲輪と呼ばれていた。
境内には小峯曲輪北堀が残るが、石垣が用いられず土塁で造られており、戦国時代の姿を留めている。
城址公園至近にある小田原城遺構
現・城址公園の外にあった近世の三の丸などは現在、市街地化しているが、一部に土塁などが残る。また西方を中心に、北条氏時代の土塁も残る。
うち、城址公園の至近距離に残る遺構には以下のようなものがあり、国指定史跡「小田原城跡」の一部を構成している。
大手門跡
大手門は三の丸への正門で、その西側(三の丸側)は上級武家の屋敷が並んだ。国指定史跡。
大手門は枡形門で、その前には外堀が掘られていたが、現在は門は跡形もなく、大正年間に建立された鐘楼が立つ。
なお、江戸時代、「時の鐘」は150m南の浜大御門にあった。
幸田門跡と三の丸土塁
幸田門(こうだもん)は三の丸への出入口の一つで、跡には三の丸の土塁が残る。国指定史跡。
なお、幸田門は明治の廃城の際に中井町の民家に移築され現存する。
財天曲輪・蓮池跡
財天曲輪跡は現・城址公園の北に接続した曲輪で、南側の二の丸及び御用米曲輪との間には水堀が、北側の三の丸との間は蓮池があった(現在は共に埋め立てられている)。国指定史跡。
1522年、北条氏は蓮池の中島に城の鎮守として江島弁財天を勧請。蓮池弁財天と称されたが、明治以降は幾度か遷座し、現在は御用米曲輪の北東土塁(焔硝曲輪跡の隣接地)に祀られている。
箱根口跡と三の丸土塁
箱根口も三の丸への出入口の一つで、跡には三の丸の土塁が残る。江戸初期はこの門が大手口だった。国指定史跡。
土塁は車道の両側(三の丸小学校と小田原スポーツ会館)に残り、枡形となっている。
清閑亭土塁
清閑亭(旧黒田長成侯爵別邸)の敷地内にも土塁が残る。この土塁の東側は三の丸であった。国指定史跡。
清閑亭に関する詳細は清閑亭の記事を参照。
八幡山古郭東曲輪
八幡山古郭は北条氏時代は詰城で、複数の曲輪からなる連郭式だったが、現在はその東端の東曲輪のみが残る。
あじさい花菖蒲まつり
本丸東堀の花菖蒲園では6月上旬~中旬にかけ、6000株の花菖蒲が、周辺のアジサイ2100株とともに見頃となる。この間、夜はライトアップされ、野外コンサート等も催される。
移築された小田原御用邸の遺構
小田原城二の丸には明治34年に小田原御用邸が創設されたが、大正12年の関東大震災で全壊し、昭和5年に廃止された。
横浜市南区の光明寺の書院は、大震災翌年の大正13年に小田原御用邸より御学問所(明治33年竣工時は常宮殿下御座所)を移築したもの。