2023年は、珍しくこの水神社の宮神輿が神田祭に参加(人形山車は以前から境内に展示されていた)。
日本橋三地区連合は地下鉄の人形町駅・水天宮前駅付近の5町会の、日本橋五地区連合は都営新宿線浜町駅付近の10町会の町神輿が参加。
日本橋三地区連合のうち1町会は単独で宮入するが、他の4町会は日本橋五地区連合の3町会と連合で、より遅い時間帯に宮入する。
大多数の町会の町神輿は日曜日に宮入を行う。それらのうち大規模な連合渡御を組むのは、外神田地区連合(12町会)、岩本町・東神田地区連合(7町会)、 神田中央連合(5町会)、中神田十三ヶ町連合(12町会)、神田駅東地区連合(5町会)、秋葉原東部地区連合(5町会)、となる。
外神田地区連合は秋葉原電気街一帯の12町会の町神輿が参加。日曜日に明神下より出発して連合宮入する。
宮入の順番待ちのため、鳥居の前には神輿の待機列ができる。
岩本町・東神田地区連合は都営新宿線岩本町駅周辺の7町会の町神輿が参加。日曜日に岩本町交差点より出発して連合宮入する。
神田松枝町会の羽衣人形山車は宮入り後、社殿前で人形が屈んだり回転したりするパフォーマンスを見せる。
神田中央連合は神保町駅南東の10町会の町神輿が参加。日曜日に神田警察署近くより出発して連合宮入する。
中神田十三町会連合はJR神田駅西側の12町会の町神輿が参加。日曜日に神田運転免許更新センター近くより出発して連合宮入する。
神田駅東地区連合はJR神田駅東側の6町会の町神輿が参加。うち1町会は土曜日夕刻に単独で宮入し、残り5町会は土曜日に旧今川中学校より連合宮入する。
秋葉原東部地区連合はJR秋葉原駅の東方にある5町会の町神輿が参加。日曜日に和泉公園近くより出発して連合宮入する。
江戸神社宮神輿(旧神田市場神輿)は秋葉原より宮入する。単独の神輿では一番注目度が高い。2023年は無し。
町神輿は宮入のほか、各自の地元でも巡行を行う。その際、地元においても連合渡御を行う地区もある。
日本橋四地区連合の町会は土曜日夕刻と日曜夕刻に分かれて宮入を行うが、土曜日の昼頃には、神幸祭の通過後にJR東日本橋駅付近で、連合渡御を行う。
日曜日、宮入りを終えた外神田地区連合の町神輿は、おまつり広場(秋葉原電気街の大通り)にて連合渡御を行う。
日本橋三地区の5町会の町神輿は土曜日には二手に分かれて宮入を行うが、日曜日には合同で、人形町から水天宮方面へと連合渡御を行う。
日本橋五地区連合では、10町会のうち3町会が、日本橋三地区とともに土曜日に連合宮入を行うが、他の7町会は宮入を行わない。しかし日曜日には、10町会の町神輿が揃い、浜町駅・明治座付近で連合渡御を行う。
祭祀として最重要なのは5月15日に固定して執り行われる例大祭で、献饌、宮司の祝詞奏上、神社本庁献幣使の献幣、氏子らの玉串拝礼ののち、里神楽と明神胡蝶の舞が奉納される。
江戸三大祭の組み合わせとして最も一般的に流布しているのは以下のパターンである。
この組み合わせは神田明神、赤坂日枝神社、富岡八幡宮の各社も主張している。
しかし根津神社の例大祭や浅草神社の三社祭、小舟町八雲神社の天王祭が組み合わされることもある。
根津神社は、その祭礼が1714年の一度だけとは言え天下祭となった関係で、神田祭と山王祭とともに江戸三大祭だとする。
また『全国神社名鑑』の浅草神社の項では三社祭・深川八幡祭・神田祭が江戸三大祭だと記す。
神田神社境内社である小舟町八雲神社も、神田祭と山王祭とともに江戸三大祭であるとする。
ただしいずれの組み合わせパターンでも、神田祭だけは必ず組み入れられている。
なお、日本三大祭に関しては、神田明神では京都の祇園祭、大阪の天神祭と神田祭とで日本三大祭だとしている。一方、赤坂日枝神社は神田祭の代わりに自社の山王祭を入れ、京都の祇園祭、大阪の天神祭と山王祭とで日本三大祭だとしている。
神田明神の例祭日は、延慶2年(1309年)に当社に将門の霊が合祀され神田明神と改称されたとき以来、旧暦9月15日と決まっていた。江戸初期の元和年間(1615-1624年)までは船渡御だったとされる。江戸時代は山車を主体とする祭礼で、江戸城内に祭礼行列が練りこみ、将軍・大名・大奥らの上覧があったことから山王祭と共に天下祭と呼ばれていた。江戸時代は京橋以北が氏子地域であった(明治期に日本橋川以北に)。
明治に入ってからも、陰祭は5月15日となったものの、本祭は旧暦9月15日に催されていたが、明治17年の祭礼時に台風で多数の死者を出したことなどから、明治25年に新暦の5月15日に移行した。しかし明治31年には渡御・山車巡行は5月に残したうえで、例大祭自体は9月に戻された。また明治20年代からは電線の整備が山車の運行に支障をきたし、神輿に移行していった。
戦後は、昭和23年から例大祭自体も5月に移行し、同27年に神幸祭が再開されるとともに町神輿の連合宮入が初めて行われた。その後、神幸祭にかける日数も次第に縮減し、戦前は10日前後もかけていた時期もあったが、昭和52年以降は一日で回る。