相模の古代国分寺跡と現・国分寺
奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇は国家鎮護のため諸国に国分僧寺(「金光明四天王護国之寺)と国分尼寺(法華滅罪之寺)の建立を命じた。
相模国の国分寺もこうして創建されたが、平安後期には衰退、後に上の台(国分寺南3・4丁目の字名)に移転して戦国時代には薬師堂のみとなった。安土桃山時代から復興が始まり、江戸時代に現在地に移転した。
相模国分寺跡
相模国の古代国分寺跡は、神奈川県海老名市の、相鉄本線・小田急小田原線の海老名駅より東へ徒歩11分、またはJR相模線の海老名駅より東へ徒歩15分に位置する、国指定史跡。
諸国国分寺でも数例しかない法隆寺式伽藍配置(東側に金堂、西側に塔、北側中心部に講堂を配し周囲を中門・回廊で囲む)で、歴史公園として整備されている。
なお、弥生神社(明治42年に神社4社の合併で誕生)の前身の一つである八幡社は国分寺の鎮守であった。
隣接する海老名市温故館内には古代の相模国分寺の百分の一スケールモデルが展示されている。
海老名中央公園には七重塔(推定65m)の三分の一スケールモデルが立つ [地図]。
国分寺
現在の相模国分寺は、神奈川県海老名市の、相鉄本線・小田急小田原線の海老名駅より東へ徒歩11分、またはJR相模線の海老名駅より東へ徒歩15分に位置する、高野山真言宗の寺院。古代の国分寺跡からは若干離れている。
相模国分寺は戦国時代には上の台に薬師堂のみ残る状態となっていたが、安土桃山時代から復興が始まり、江戸時代に現在地に再興された。
弥生神社の前身4社のうち八幡社と熊野社は、明治維新時の神仏分離まで、国分寺が別当寺であった。
本堂は平成6年築。
当地が内海であった頃に船を係留する杭として打ったのが根付き成長したと伝える。神奈川県指定天然記念物。
相模国分尼寺跡
相模国分尼寺跡は、相模国分(僧)寺跡から北へ徒歩7分(600m)に位置する、国指定史跡。
中門・金堂・講堂が南北に並び、講堂の両脇に経蔵と鐘楼が立つ伽藍配置であった。
国分尼寺は幕末には、「辻」に残った国分寺持ちの阿弥陀堂としてなんとか法灯を保っていたが、幕末に焼失したことにより廃絶し、法灯を継ぐ寺院は現存しない。
なお、平安時代の873~881年に一時的に国分尼寺に当てられていた漢河寺(湧河寺)という寺は、後に清水寺に改称し、明治元年に龍峰寺の境外仏堂となり、昭和4年にはその寺地に龍峰寺が移転して吸収された。
金堂跡には庚申堂が立つ。
相模国の、もう一つの国分寺
鎌倉市にあって、鎌倉大仏で知られる高徳院は、その江戸時代に書かれた縁起において、奈良時代の天平9年(737年)に行基により清浄泉寺として創建され、聖武天皇の勅で東三十三州の惣国分寺と定められたとしている(もちろん史実では認められない。なお、日本全体の総国分寺は東大寺)。