川越大師(喜多院)
川越大師(喜多院、きたいん)は、埼玉県川越市の、西武新宿線の本川越駅より東へ徒歩13分、またはJR川越線・東武東上線の川越駅より北東へ徒歩22分の地に位置する、天台宗の名刹。星野山無量寿寺喜多院。
奈良時代に芳道仙人が開いた霊場に、平安時代の天長7年(830年)、慈覚大師円仁が星野山無量寿寺を開基。無量寿寺は当初は仏地院(中院)のみであったが、後に仏蔵院(北院)、多聞院(南院、明治初期に廃絶)も建立された。慶長4年(1599年)、天海僧正が北院の住持となって寺名を喜多院と改めた。慶長18年(1613年)には天台宗の関東総本山となり、これは寛永2年(1625年)に江戸に寛永寺が創建されるまで続いた。
境内(川越市指定史跡)には古建築も多く、7棟が国の重要文化財、2棟が県の文化財となっている。うち庫裏・書院・客殿は江戸城から移築したもの。
山門は1632年築で国指定重要文化財。喜多院最古の木造建築物。
山門の右側に接続する番所は1841年以降に若干後方から現在地に移動したもので埼玉県指定有形文化財。
慈恵堂は本堂であり、慈恵大師良源(元三大師)を祀る。大師堂、潮音殿とも呼ぶ。1639年築で埼玉県指定有形文化財。
多宝塔も1639年建立だが後世の改変が大きい。埼玉県指定有形文化財。
大黒堂は昭和10年築。
鐘楼門は慈眼堂の正面方向にある。建築年代は不詳だが、1633年造営の仙波東照宮の門として建てられたとの説(当時は東照宮は現在の慈眼堂の位置にあった)や、慈眼堂と共に1645年頃に建てられたとの説、鐘の銘から1702年建立説などがある。国指定重要文化財で、銅鐘が附指定されている。
7世紀初頭の古墳上に立つ慈眼堂(開山堂)は慈眼大師天海を祀る。1645年築。国指定重要文化財で、厨子が附指定されている。
慈眼堂の厨子内には天海僧正の木像が安置されている。重文の慈眼堂に附指定されている。
石塔・石碑群のうち暦応の古碑は埼玉県指定史跡で、南北朝期の暦応年間(1338-1342年)の建立で歴代住職の名が刻まれている。
松平大和守家は1767年~1866年にかけ7代に渡って川越藩主を務めた。そのうち川越で死去した5代朝矩・6代直恒・7代直温・8代斉典・10代直候の5名の墓があり、各々が石門・五輪塔・石碑(神道碑)等で構成されている。川越市指定史跡。
有料拝観エリア
現在の客殿、書院、庫裏は、1638~1639年にかけて江戸城紅葉山にあった別殿の一部が移築されたもので、周囲の庭園とともに有料で公開されている。
また場所は境内の別地域だが、日本三大羅漢の一つを称する五百羅漢も共通の拝観料で有料公開されている。
庫裏は現在は有料拝観エリアの入口として使用されている。江戸城紅葉山の別殿を1638年に移築。母屋と食堂で構成されている。国指定重要文化財で、玄関、玄関広間、渡廊及び接続室が附指定されている。
書院も江戸城紅葉山の別殿を1639年に移築。「春日局化粧の間」がある。国指定重要文化財。
客殿も江戸城紅葉山の別殿を1638年に移築。「徳川家光誕生の間」がある。国指定重要文化財で、渡廊が附指定されている。
書院の北側には遠州流庭園が整備されている。
この五百羅漢は1782~1825年にかけて建立されたもので、538体の石仏が並ぶ。日本三大羅漢の一つだと称している。
寛永寺に移築された喜多院の本地堂
東京・寛永寺の前代の根本中堂(本堂)は慶応4年(1868年)に上野戦争で焼失したため、明治12年に喜多院の本地堂(1638年築)が新たな根本中堂として移築された。
喜多院の年中行事
喜多院で人出の多い行事としては、1月3日の初大師だるま市、2月3日の節分豆まき、11月1~23日頃の小江戸川越菊まつりがある。
明治維新時の神仏分離令まで、喜多院は隣接する仙波日枝神社及び仙波東照宮の別当寺であった。