寛永寺
寛永寺は、東京都台東区の、JR山手線の鶯谷駅より西へ徒歩10分の地に位置する、天台宗の大本山。
山号は東叡山。
寛永2年(1625年)、比叡山延暦寺に倣って江戸城の鬼門の方角に創建。
江戸時代においては、増上寺、日光山満願寺(現・日光山輪王寺)と共に徳川将軍家の霊廟が置かれ、寛永寺貫主は京都から迎えた法親王が輪王寺宮として代々着任し、宮門跡寺院として天台宗を支配した。輪王寺宮は日光山満願寺の貫主も兼ね、また多くは比叡山延暦寺の貫主をも兼ねた。なお、江戸時代は寛永寺という個別の寺院があったのではなく、寛永寺とは根本中堂と子院の総称であった(いわゆる一山寺院)。
東叡山の門跡号(輪王寺門跡)は明治3年に廃止されたが、明治16年、その名に因んだ輪王寺が両大師の境内に再興(日光山にも再興)、同18年には輪王寺門跡の公称も許可された。現在、寛永寺と輪王寺は別の寺であるものの、輪王寺門跡門主と寛永寺貫主は兼務しているようである。
現在は、天台宗山門派(教団名は「天台宗」)の三大本山の一つ(他の2ヶ寺は平泉中尊寺、長野善光寺大勧進)であり、その上に総本山の比叡山延暦寺が位置する形となっている。
中心伽藍
寛永寺は、明治維新までは今の上野公園全域を境内とする巨刹であった(今の噴水の辺りに本堂に当たる根本中堂が、東京国立博物館の辺りに輪王寺宮の住居である本坊があった)が、上野戦争で焼失した後は旧境内は官営の上野公園となり、寛永寺は、子院があった現在地に移転した。
根本中堂は本堂に相当する堂で、本尊は薬師如来。
江戸期の堂は上野戦争で焼失し、現在のものは喜多院(埼玉県川越市)の本地堂(1638年建立)を明治12年に移築したもの。国登録有形文化財。
寛永寺の除夜の鐘は、境内にある鐘楼と、旧境内である上野公園内に残る時鐘堂の両方で行われる。
慈海僧正墓は東京都指定旧跡。
了翁禅師塔碑は東京都指定旧跡。
寺務所の奥には15代将軍徳川慶喜が謹慎した「葵の間」(拝観事前申込制)や、渋沢家霊堂があり、ともに国登録有形文化財となっている。
渋沢栄一家の渋沢家霊堂は明治31年建立。非公開だが、屋根のみ外から見える。
境内にある寛永寺幼稚園は大正12年頃に竣工。改装されたため一見古く見えないが、中央玄関は改装されずに残っている。
徳川家霊廟
寛永寺には、徳川将軍の霊廟建築は2組あった。寛永寺に埋葬されたのは4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6名だが、8代吉宗が新規の霊廟の建造を禁じて以降は、厳有院(4代家綱)と常憲院(5代綱吉)の霊廟に合祀する形となったのである。その2霊廟も、太平洋戦争の空襲で大部分焼失した。
なお、寛永寺にある、将軍以外の徳川家の墓所及び最後の将軍徳川慶喜の墓は、谷中霊園内の寛永寺墓地にある。
常憲院霊廟
常憲院霊廟は水盤舎(1709年、非公開)と勅額門(1709年)が残り、国指定重要文化財となっている。
常憲院霊廟の奥院(非公開)は寛永寺ではなく徳川家の所有で、銅宝塔と唐門は国指定重要文化財であり、それに浚明院と文恭院の石宝塔が附指定されている。
なお、葵の間や徳川家霊廟は事前申込制で非公開部分も拝観可能。
常憲院霊廟
厳有院霊廟も水盤舎(1699年、非公開)と勅額門(1679年)が残り、国指定重要文化財となっている。
厳有院霊廟の奥院(非公開)もまた寛永寺ではなく徳川家の所有で、銅宝塔と唐門は国指定重要文化財であり、それに有徳院、孝恭院、温恭院、天璋院の石宝塔が附指定されている。
両大師(寛永寺開山堂)
開山堂は、正保元年(1644年)、慈眼大師天海を祀る慈眼堂として創建。後に元三大師良源を併せ祀って両大師と呼ばれるに至った。
明治16年、境内に、輪王寺門跡に因んで輪王寺が再興され、門跡号を公称した(なお、江戸時代は、輪王寺とは寛永寺住職である法親王個人(輪王寺宮)の号であり、寺名ではなかった)。
表門は江戸中期の建立。
本堂は平成5年建立。
土蔵造の阿弥陀堂は18世紀中頃に建立。
本堂と輪王殿の間に、幸田露伴邸の門が移築されている。
その脇にある手水屋は江戸後期の、鐘楼は江戸初期の建立。本堂前の手水舎も江戸時代のもの。
旧寛永寺本坊表門は寛永年間(1624-1645年)の建立。国指定重要文化財。
背後に見える輪王殿は平成5年建立。
上野公園に残る寛永寺の諸堂
かつての境内である上野公園には、寛永寺の諸堂が一部残る。
上野公園内にあり、江戸時代には寛永寺の子院が別当を勤めが現在は完全に独立している神社については、上野東照宮の記事や花園稲荷の記事を参照。
清水観音堂
清水観音堂は寛永8年(1631年)創建。京都東山の清水寺を模した堂で、不忍池弁財天と相対している。
本尊は恵心僧都作の千手観音。
清水観音堂は国指定重要文化財で、厨子がそれに附指定されている。1631年建立。
京都東山の清水寺を模して懸崖に張り出した懸造(舞台造)となっている。
清水観音堂の舞台の前に再現された「月の松」の輪の中からは、不忍池に浮かぶ弁天堂を望むことができる。
庫裏は昭和7年建立。設計は伊東忠太。
不忍池弁天堂
不忍池弁天堂は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島を模して寛永年間(1624-44年)に創建。当初は橋はなく船で往来したが、寛文年間(1661-73年)に石橋が架けられた。
参道には、昭和5年に改修された反り石橋(天龍橋)が架かる。江戸時代は鳥居もあったが、明治維新の神仏分離で撤去された。
弁天堂は昭和20年に空襲で焼失し、昭和33年にRC造で再建。現在は八角円堂に拝殿を連結した複合仏堂だが、戦前は一般的な神社社殿であった。なお、手水舎は戦前のもの。
弁天堂前には人面蛇身の宇賀神の像が安置されている。当堂の本尊の弁財天は慈覚大師円仁作と伝え、宇賀神を頭上に頂いている。
大黒堂は昭和43年建立。豊臣秀吉の持仏であった大黒天を祀る。
弁天堂の裏にある小祠は奥ノ院。
裏手には聖天島という小さな島があり、これはかつては池上の孤島であった。弁天社は当初はこの聖天島に鎮座していたが、寛永年間に弁天島(中島)が造られ、そこに遷座した。
聖天島へ架かる太鼓石橋は1803年架橋。
聖天島への扉は通常は閉ざされているが、各月の巳の日(初巳、二ノ巳、三ノ巳の日)には開扉されて島に渡ることができる。
新年を迎えると同時に、木遣りと共に弁天堂の扉が開かれる。なお、弁天堂は江戸で最も古い七福神巡りとされる谷中七福神の弁才天でもあり、1月10日まではその巡拝客も集める。
3月下旬から4月初旬にかけての「うえの桜まつり」においては、弁天堂の参道には露天商が出店し、多くの客を集める。このイベントについての詳細はうえの桜まつりの記事を参照。
弁才天の縁日として、毎月の初巳の日には初巳祭が開かれ、露店も出る。特に9月の巳の日に行われる巳成金大祭では本尊が開帳され、縁起物として金運が上がるという巳成金小判が授与される。
7月には、盆の行事として灯籠流しが不忍池弁天堂にて執り行われる。これはうえの夏まつりの構成行事の一つでもある。
旧寛永寺五重塔
旧寛永寺五重塔は国指定重要文化財。1639年の建立で、現在は東京都が所有。上野動物園内にあるが、上野東照宮の参道からも見ることができる。この塔は江戸時代は東照宮の所有であったが、明治の神仏分離令による取り壊しを免れるため寛永寺の所有であることにした経緯がある。
上野大仏
上野大仏は関東大震災で倒壊し、再建されぬまま胴体は戦時中に供出。現在は顔面だけが残る。
パゴダは薬師如来を祀る。
時鐘堂は1666年建立。上野大仏に隣接。寛永寺の鐘楼は上野戦争で焼失したが、この時鐘堂の方は焼失を免れた。
なお、寛永寺周辺の子院については、寛永寺の子院の記事を参照。
外部に移築された寛永寺の建物
円通寺
荒川区南千住の円通寺(曹洞宗)には、彰義隊を弔った縁で明治40年に移築された旧寛永寺黒門が現存する。
正法院
豊島区西巣鴨の正法院(天台宗)の阿弥陀堂は、元禄年間(1688~1704年)に建造された輪王寺宮書院を明治6年に移築したものである。本堂の背後にあり正面からは見えないが、隣の小学校跡から覗える。なお、正法院は明治維新までは台東区の下谷にあり、現・下谷神社の別当寺であった。
吉祥院
杉並区の高井戸の吉祥院(天台宗)の本堂は、『天台宗東京教区寺院誌』によると、東叡山の慈眼堂を移築したものだと資料にあるという。
これらのほか、桐生市の善竜寺に寛永寺の裏門が山門として移築され、市の文化財に指定されている。