五條天神社 & 花園稲荷神社
五條天神社と花園稲荷神社は、東京都台東区の上野公園内に隣接して鎮座する神社。
この2社の境内は地続きで、社務所等も共通であり、実質的には一つの神社である。
五條天神社
五條天神社は、景行天皇40年(110年)に、東征中の日本武尊が現・上野公園内に薬祖神(大己貴命・少彦名命)を祀って創建。その後、遷座を繰り返し、現在地へは大正14年に遷座(社地の変遷の詳細は後述)。
社殿は拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造。昭和3年建立。
手水舎は、屋根は方形で鳳凰が乗り、柱は八角堂の、変則的な形状をしている。
花園稲荷の南参道沿いに五条天神社の鳳輦庫がある。
祭神の性格
五条天神社は、江戸前期の寛永18年(1641年)に天満天神(菅原道真)を相殿に迎えているとはいえ、あくまで薬祖神を主神として祀る神社である。拝殿には薬草の天井絵がある(外からは覗えない)、また節分に行われる「うけらの神事」の「うけら」は薬草である。そのため、かつては薬問屋街であり現在も多くの製薬会社が位置する日本橋には、当社の分霊(福徳の森の薬祖神社)が迎えられている。
一方で、ウソ替神事は太宰府天満宮が発祥の天満天神に関連する行事であり、また例大祭の神事も天満天神の縁日である(5月の)25日に行われている。
社地の変遷
西暦110年頃に日本武尊により上野公園内の天神山(現在の摺鉢山)、また一説には後の寛永寺本坊の地(現在の東京国立博物館)に創建されて以来、江戸前期までは上野公園内に鎮座した。江戸前期の明暦3年(1657年)、寛永寺拡張に際して上野広小路に遷座し、更に元禄10年(1697年)に別当であった瀬川家の屋敷(アメ横入口にあった。現在、石碑が残る)に仮遷座したまま時を過ごした。大正12年に山下町(JR上野駅近く)に仮遷座したが関東大震災で焼失、大正13年に不忍池畔の西南隅に仮遷座後、大正14年に花園稲荷の隣の現社地に仮遷座し、昭和3年に社殿が竣工し正式に鎮座した。
なお、江戸時代の別当の瀬川家は連歌師で、剃髪して肉食妻帯しながら神道で奉仕し、しかも吉田神道にも白川神道にも属さなかった(現在は宮司家)。
花園稲荷神社
花園稲荷神社の鎮座時期は不詳だが、室町時代に太田道灌が勧請したとの説もある。寛永年間に寛永寺を創った天海僧正が、忍岡の狐が棲家を失ったのを哀れみ一つの洞窟を造り、その上に祠を立てて祀ったという。廃社となっていた稲荷社跡に再興したとも言い、また天海ではなく天海の弟子が創建したともいう。
当時は俗称を穴稲荷、正式には忍岡稲荷と称し、寛永寺の鎮守となっていたが、明治維新で廃絶。しかし明治6年に再興され、隣に五條天神社が遷ってきた昭和3年に当社の社殿も整備された。五條天神社と異なり、花園稲荷神社には特に氏子はいない。
なお、この明治以降の経緯について、『下谷と上野』なる本や『天台宗東京教区寺院誌』では、花園稲荷は廃絶した忍岡稲荷跡に新たに創建された神社であって忍岡稲荷とは関係ないとし、忍岡稲荷は、旧別当寺の本覚院境内に昭和3年に再興された社だとしている(現在、忍岡稲荷の小祠がある)。
社殿は戦災を免れ、昭和3年当時のもの。
この脇に、穴稲荷への入口がある。
上の穴稲荷拝殿(?)の裏にある。なお、穴稲荷内は現在は撮影禁止となった。正面の祠のほか、この右の穴の上のガラス越しに、小祠があるのが覗える。
左端の小祠は、穴稲荷の穴の上のガラス越しに見える祠を、東参道沿いからネット越しに見たもの。由緒から考えると、これが天海が創ったという忍岡稲荷の祠を継承するものか。
もう一つの忍岡稲荷
前述のように、花園稲荷は廃絶した忍岡稲荷跡に新たに創建された神社であって忍岡稲荷とは関係ないとする考えもあり、忍岡稲荷は旧別当寺の本覚院の境内に昭和3年再興されたとしている。
五条天神社・花園稲荷神社の年中行事
初詣
五条天神では境内に木材を積み上げ、大晦日の晩より大型の焚き火が行われる。
うけらの神事
節分の日(2月3日)には五條天神社ではうけらの神事が行われる。拝殿前では方相氏(鬼を退ける4つ目の者)と病鬼の争いや斎主と病鬼との問答が演じられ、その後に豆まきが行われる。この行事に関する詳細は「五條天神社 うけらの神事」の記事を参照。
例大祭
五條天神社の例大祭は5月下旬で、3年ごとの本祭では土曜日に町神輿の連合渡御が、日曜日には宮神輿と鳳輦の巡行が行われる。この行事に関する詳細は「五條天神社 例大祭」の記事を参照。