妻恋神社
妻恋神社は、東京都文京区の、JR中央線または東京メトロ丸ノ内線の御茶ノ水駅より北へ徒歩7分の地に位置する鎮守社。
現在の祭神は倉稲魂命(稲荷神)・日本武尊・弟橘媛命。
稲荷の関東惣社と伝えられ、また神代創建とも言われる稲荷社である(ともに後述)。
なお、現在の由緒では、景行天皇40年頃(西暦100年頃)に東征中の日本武尊により創建され、弘仁年間(810-824年)に嵯峨天皇の勅で稲荷の関東惣社・正一位の地位と諸国に神階神璽を下す権利を与えられた、としている。
現在地へは、湯島地区内の「元妻恋」から、万治3年(1660年)に遷座した。
第二次大戦後に再建された社殿は、拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造。
元妻恋・花姫稲荷
花姫稲荷は、妻恋神社の旧鎮座地と伝える「元妻恋」にある稲荷の祠。妻恋神社の元宮に相当する。
向丘・蓮光寺の妻恋稲荷
江戸初期、当社は湯島・蓮光寺境内の鎮守であったが、明暦の大火後に蓮光寺が文京区向丘へと移転する際、当社は湯島に残された。その代わり、移転先の蓮光寺境内に妻恋稲荷神社が鎮守として勧請された。今も蓮光寺境内には鎮守として妻恋稲荷の小祠がある。
稲荷の関東惣社
前述のように、妻恋神社は江戸時代、関東の稲荷総社を名乗っていた。
『御府内備考続編』には、平安初期の弘仁年間(810-824年)に嵯峨天皇の勅裁で稲荷の関東惣社と定められ、平氏政権の頃である治承年間(1177-1181年)にも幕府の祈願所として古例の通り関東二十八国へ神階を下した、との記述が見える。
また、ここでは「関東二十八国」となっているので、この「関東」は一般的な意味の関東よりもっと広い範囲の東国を指していると思われる。ただし一方で、江戸時代の地誌には「関八州」との記述もある。例えば、『御府内備考続編』に引用されている『江戸図説』には「本朝二宮関八州稲荷の惣社」とある。
その他にも『御府内備考続編』には、「武州惣鎮守」(本所深川への移転を打診されたが、当時は隅田川が武蔵国と下総国の境界であり-「両国」の地名はこれに由来する-、武蔵国総鎮守が武蔵国外にあるのは問題ありと奏上し沙汰止み)だとか、「当社が当国を武蔵国と号する初めであるというのは、「倉」は「蔵」であり、日本"武"尊と"倉"稲魂命の両神一社で「武蔵」の根元だということ」、などといった文が収録されている。
さて、ここでもう一社、江戸時代に関東の稲荷総社を名乗っていた稲荷社がある。現・東京都北区に鎮座する王子稲荷神社である。
『江戸砂子温故名跡志』や『吾妻名所図会』といった地誌には「王子稲荷は関八州の稲荷の司、妻恋は江戸の触頭」とまで言われてしまうありさまであった。そのため妻恋神社は王子稲荷が名乗る稲荷惣社の称号について幕府の寺社奉行に訴え、その結果勝訴して王子稲荷にこの称号を取り下げさせている。
なお、『祠曹雑識』に収録されている寺社奉行の裁決によると、王子稲荷の方も、粗縁起に「関東三十三个国稲荷惣司」と付記してあったといい、こちらも「関東」は一般的な意味よりもっと広い範囲の東国を指していると思われる。
この2社のほかにも、似たような称号を下されたと称している稲荷社が存在する。
中央区の鉄砲洲稲荷神社は、『全国神社名鑑』によると、江戸初期の寛文5年(1665年)に神祇官領卜部兼敬より正一位稲荷大明神の神位と神号を授かり、以来関東総司稲荷神社と称したという。
また、新宿区の水稲荷神社も、『東京都神社名鑑』によると、江戸中期の天明8年(1788年)に京都御所が炎上した際に翁の姿で現れ防火に努めたので、関東稲荷惣領職を賜ったという。
ただし、この2社については、これ以上のことは未確認である。また稲荷総社としての認知度は妻恋神社や王子稲荷神社と比べかなり低い。
創建伝承と祭神
妻恋神社の最も一般的な創建伝承は、第12代景行天皇の即位40年(西暦110年)に、皇子である日本武尊(ヤマトタケル)が東征中、湯島で、旅の途中で失った妃の弟橘姫を思って「妻恋し」と詠い、その時に当社を創建した、というものである。社名の「妻」は日本武尊、「恋」は弟橘媛、「稲荷」は倉稲魂神を指し、この3座で妻恋稲荷だとする。
しかし、『御府内備考続編』には、他書には見えない縁起も収録されている。
これによると、祭神は以下の3座である。
- 大日本女神(磐筒男神・磐筒女神合祀) − 往古は男女の神を祀るので妻問之社と称し、神代に経津主神(香取神)が東国平定時に父神を勧請したものと伝える。神体は秘封で、3神体のうち1体は神代の戈と伝える
- 磐裂神(磐筒男神・磐筒女神・根裂神・経津主神合祀) − 日本武尊が東征時に兵糧備蓄の稲置を設け、香取神の神功を慕ってこの5神を祀り、倉稲魂の徳として稲置(いなぎ)之社と奉称
- 日本武尊(弟橘姫合祀) − 日本武尊の徳で東国が平定されたので日本武尊と弟橘姫を稲置之社に合祀。日本武尊の死後、父の景行天皇は東国を巡幸したが、当地で民が「日本武尊のお陰で飯も成りぬ」と慕っているのを知り、妻恋飯成之社と改称させた。これが日本初のイナリの神号だとする
この縁起の内容は、特異な点が2点ある。
まず、創建を神代に遡らせたこと。
実は、神代に遡る縁起を作った神社は、日本全体ではそこまで珍しくはない。しかし地域的に偏りがあり、東京にはほとんどない。(今のところ、墨田区の隅田川神社について、『隅田町誌』に言及があるのを見かけた程度である。詳細は隅田川神社の記事を参照。)
次に、日本最古の稲荷を名乗った事である。
上述のように、当社は西暦2世紀初期にイナリ社となったとしている。稲荷社の総本社とされる京都伏見稲荷大社の、現在一般に流布している創建年代は和銅4年(711年)で、景行天皇の代より遥かに後代の事である(ちなみに和銅4年創建というのは、伏見稲荷の社家だった秦氏系の縁起であり、他にも別の社家だった荷田氏系や伏見稲荷を鎮守としていた東寺系などの縁起があって、創建年代については弘仁7年(816年)や弘仁14年(823年)、宝亀年間(770-780年)などの伝承もある)。
東京の古い由緒の稲荷社
妻恋神社のように、稲荷社の総本社の伏見稲荷大社の創建年とされる和銅4年(711年)より古い歴史を主張する稲荷社はマレに存在する。
東京都内だとほかに、現在所在不明(恐らく廃絶)となっている、浅草三間町にあったという宮戸森稲荷が、用明天皇の代(585-587年)の創建を称していた。
また、伏見稲荷と同時期の和銅年間の創建伝承を主張する稲荷社なら、都内に他に少なくとも5社はある(下に列挙)。
このほか、天平2年(730年)創建と伝える下谷神社は、そのウェブサイト上で、都内最古の稲荷を名乗っている。
白幡稲荷神社
和銅4年鎮座。
福田稲荷神社
和銅4年勧請。
十番稲荷神社
昭和25年に末広神社と竹長稲荷神社が合併した社。うち竹長稲荷は和銅5年創建とも弘仁13年(822年)創建とも。
半田稲荷神社
和銅4年創建とも、同7年創建とも。当社についての詳細は半田稲荷神社の記事を参照。
吉原神社
明治5年に吉原の稲荷社5社を合併した社。うち九郎助稲荷は和銅4年創建。