海雲寺
海雲寺は、東京都品川区の、京急本線の青物横丁駅より東へ徒歩2分の地に位置する曹洞宗の寺院。正式には龍吟山瑞林院海雲寺。
旧東海道品川宿にある。
鎌倉時代の建長3年(1251年)、海晏寺境内に塔頭庵瑞林として創建。当時は臨済宗だったが慶長元年(1596年)に海晏寺とともに曹洞宗に改め、寛文元年(1661年)には寺号も海雲寺と改めた。
本堂に安置されている本尊は十一面観音だが、本堂隣りの荒神堂に祀られている鎮守の千躰荒神(三宝荒神)の方が有名で、3月と11月の27~28日には千躰荒神祭が開かれる。
寄進者名が刻名された石塀。
電燈講が昭和2年に建立した荒神像が境内中央に立つ。
鐘楼は大正初期の建立。
その隣にあるのは烏瑟沙摩明王堂(烏瑟沙摩明王は便所の守護神として知られる)。
本尊は春日仏師作と伝える十一面観音。
千躰荒神堂には海雲寺の鎮守である千躰三宝大荒神王が祀られている。由来は後述。
荒神堂の拝殿内には天井絵と絵馬群がある。荒神の神使は鶏であるため鶏の図案が多い。また拝殿の格天井には、火の安全を祈願して火消しが奉納した纏(まとい)の図案が施されている。
荒神堂は拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造で、関東大震災後に再建されたもの。拝殿は木造だが幣殿と本殿はRC造。
荒神堂の本殿はかなり変則的な形状をしている。前述のように荒神堂は関東大震災に再建されたと資料にはあり、その後建て替えられたとする資料は見当たらなかったので、当時のものと思われる。
千躰三宝大荒神王の由来
三宝荒神は一般に竈や台所の守護神として信仰される神で、仏教の神ではあるが日本発祥である。
海雲寺の三宝荒神(千躰三宝大荒神王)の由来は、
「江戸時代初期、佐賀藩主勝茂の子の直澄(後に支藩蓮池藩の初代藩主)が島原の乱に出陣した際、天草にあった荒神に参詣し戦勝を祈願すると、その先頭に千余の神兵が姿を現し神助を与えたので、以後鍋島家ではこの尊像を港区高輪の下屋敷で祀っていたが、明和7年(1770年)に海雲寺に移した」
というものである。また少し前段が違うプロットでは、直澄が島原の乱に出陣後、直澄を死して守護せんとの誓いを立てて乳母が自害し、直澄が天草にあった荒神に参詣し戦勝を祈願すると、以後敵が矢を雨のように射掛けても乳母が現れて叩き落とし、荒神の神助もあって戦功を挙げたという(ではこの場合何が千躰なのかというと、荒神の手が千本だとも、本堂内に千体の荒神が座すともいう)。
千躰荒神祭り
海雲寺では、毎年3月27~28日と11月27~28日に千躰荒神の大祭が催される(日程固定)。江戸時代後期に始まった祭礼で、関係の深い鍋島藩からは人員の派遣があった。荒神は火の神で火伏せのご利益があるとされたため、特に冬場の火事の多い時期を控えた秋の方が盛況。
祭礼期間中、参拝者は自宅の木箱(御宮または御厨子と呼ばれる)入りの荒神像を携えて海雲寺を訪れ、境内で新しい祈祷札を求めた後、荒神堂で古い祈祷札を納め、本殿の前立本尊(本尊の千躰三宝大荒神王自体は秘仏)を拝し、御宮と新しい祈祷札を護摩壇の護摩火にかざして清めて後に帰宅する。かつては御宮を風呂敷に包んで首にかけて参拝し、帰る際にも御宮を地面に置かず、寄り道せず、立ち止まらず、後ろを振り返えらず、知人と行きあっても口をきかずに帰宅するものとされていた。
なお、この行事では護摩を焚くが、禅宗である曹洞宗には護摩修法の儀礼がないため、かつては高野山など他宗で修行をして習得していたという。
境内には露店が出る。縁起物として売られる釜形のオコシは「竈をおこす」(身上を起こす)から来ている。また、荒神に供える荒神松も売られる。
旧東海道品川宿には他に、善福寺、法禅寺、寄木神社、品川神社、東海寺、清光院、荏原神社、海徳寺、願行寺、本光寺、常行寺、長徳寺、天妙国寺、品川寺などがある。