荏原神社
荏原神社は、東京都品川区の、京急線の新馬場駅より南東へ徒歩3分の地に位置する鎮守社。
東海道品川宿南品川、及び天王洲などの鎮守。
和銅2年(709年)、奈良の丹生川上神社より高龗神を勧請して西品川の現・貴船神社の地に創建。長元2年(1029年)に神明宮、宝治元年(1247年)に牛頭天王を勧請合祀。慶長6年(1601年)に現在地に遷座した。
なお、創建年代の異伝として、天長年間(824-834年)説や弘仁9年(818年)説もある。また大井町の西光寺が旧地だとの異伝もある。
近代に入るまでは貴布禰社などと呼ばれたが、明治5年に南品川神社に、同8年に現社名に改称。
一般に品川で准勅祭社に列した神社と言えば品川神社のことだが、荏原神社の公式ウェブサイトを見ると、准勅祭社に定められたのは当社だと主張している。
社前の目黒川に架かる鎮守橋は昭和60年架橋。大正期から昭和初期にかけて河川改修で流れが変更されるまで、目黒川は当社の北側を流れており、それが北品川と南品川の境界(つまり品川神社と荏原神社の氏子域の境界)であった。
表鳥居の先にある手水舎は昭和15年建立。
拝殿・幣殿は江戸末期の1844年建立。昭和14年に屋根を焼失し、その後修復された。
本殿も1844年建立。流造風の本殿の軒下に棟持柱が伸びる、変則的な構造。近代の改造か。
神楽殿は昭和15年建立。
社務所は昭和15年建立。
境内末社は左から八幡宮、稲荷神社、熊野神社。3棟とも、基本は流造風ながら、屋根が直線的で、これも少し変則的。
例大祭
当社の例大祭は6月上旬で、毎年、日曜日には町神輿の連合渡御がが行われる。また不定期で、現在の東京では珍しい海中渡御が行なわれる。この行事に関する詳細は「荏原神社 例大祭」の記事を参照。
なお、神社の公式HPでは、この天王祭ではなく、主祭神の祭礼である9月9日の貴布禰祭が例大祭となっている。ただし、祭りの告知ビラ等では天王祭を例大祭と表記している。
祭神について
冒頭で述べたように、荏原神社の現在の由緒では和銅2年(709年)9月9日に、藤原伊勢人が奈良の丹生川上神社より高龗神を勧請し、長元2年(1029年)に神明宮、宝治元年(1247年)に牛頭天王を勧請した、とする。しかし、いくら丹生川上神社と貴船神社が性格の似た祈雨の神社であっても、丹生川上神社の分社を貴布禰社と称するのは疑問がある。
当社を創建したという藤原伊勢人は朝廷の廷臣で、京都の鞍馬寺を創建したと伝える人物であるが、この鞍馬寺は、貴船社・貴布禰社の総本社である京都の貴船神社の近くにある。また、江戸幕府編纂の地誌『新編武蔵風土記稿』にも、現在とほぼ同じ由緒が収録されているが、高龗神をどこから勧請したかについては言及がない。それどころか、昭和19年刊行の社誌『郷社荏原神社誌』にも勧請元への言及はない。なお、荏原神社の旧社地に鎮座しているとされる西品川の貴船神社は、『品川区のお宮』によれば、荏原神社と同じ和銅2年(709年)9月9日に、同じ藤原伊勢人により勧請されたとするが、勧請元は(奈良の丹生川上神社ではなく)京都の貴船神社だとしている。
荏原神社の祭神は『新編武蔵風土記稿』では水神として知られる闇龗神・闇山祇・闇罔象3神で、例祭は創建の日である9月9日とし、相殿には右に神明、左に祇園牛頭天王を祀り、神明の例祭は神明を勧請した日である9月16日、牛頭天王の例祭は6月7日だとしている。ところが明治45年刊行の『明治神社誌料』では、主神は高龗神1柱のみとなり、神明は天照大神と豊受姫神に、牛頭天王は素戔嗚命となったうえで、これらに手力雄命を加えて相殿扱いとなっている。荏原神社のウェブサイトによると、現在では、これらにさらに大鳥大神と恵比須神も加っている。
また、現在の三大祭は、9月の貴布禰祭(例大祭)、6月の天王祭、11月の大鳥祭だとしている。大鳥大神は日本武尊だという。『新編武蔵風土記稿』では末社に日本武尊を祀るとあり、『明治神社誌料』では境内社に白鳥神社があるので、末社を本社本殿に合祀した神格であろう。
品川貴船神社
品川貴船神社は、荏原神社の元宮だと伝える神社。
上述のように、品川貴船神社は和銅2年(709年)に創建されたとしている。『品川区のお宮』の貴船神社の項では、京都の貴船神社を勧請したものであり、品川貴船神社から分霊されたのが荏原神社だとする(ただし同書の荏原神社の項には旧鎮座地に品川貴船神社が創建されたとある。『新編武蔵風土記稿』は後者の立場で、品川貴船神社は荏原神社の旧跡を伝えるために創建されたとする)。鎮座地である三ツ木は品川宿の枝郷であったが、南北の品川宿の枝郷としてそれぞれ南北の三ツ木があり、貴船神社はその共通の鎮守であった(鎮座地は南三ツ木の内)。
品川貴船神社の祭神は、主神は高龗神、配神は素戔嗚命である。当社はかつては荏原神社の神職鈴木家が兼務する神社だったが、寛文年間(1661-1672年)より品川神社の神職小泉家の兼務となり、昭和初期に専任の神職を迎えて独立するまでは、品川神社の境外社であった。
『新編武蔵風土記稿』の品川神社の項では、9月9日の貴布禰祭では品川貴船神社(貴布禰社)に神輿を送り、そこから品川神社へ渡御する、とある。また、同書の品川貴船神社の項では、品川貴船神社は現・荏原神社の旧鎮座地に建てられた神社で、神体は通常は品川神社に安置し、例祭日の9月9日に神輿で奉遷して祭祀した、とある。現在の品川神社の祭神に貴布禰明神に相当する神が見当たらないのは、品川貴船神社に分離されたからかも知れない(が、裏付ける資料は発見できなかった)。
現在の品川貴船神社の由緒は荏原神社の由緒を流用したものではないか(ただし、荏原神社の縁起にはもともと勧請元の記載があったとは思えないので、その部分だけ京都の貴船神社から勧請したと変えたのでは)。
なお、『明治神社誌料』では、荏原神社の三ツ木の旧鎮座地というのは品川神社のことだというとしているが、誤解だと思われる。
また前述のように、『新編武蔵國風土記稿』は荏原神社の旧地が大井町の西光寺だとの異伝も載せる。
旧東海道品川宿には他に、善福寺、法禅寺、寄木神社、品川神社、東海寺、清光院、海徳寺、願行寺、本光寺、常行寺、長徳寺、天妙国寺、品川寺、海雲寺などがある。