品川神社
品川神社は、東京都品川区の、京急線新馬場駅より西へ徒歩2分の地に位置する鎮守社。
東海道品川宿北品川、及び御殿山などの鎮守。
明治初期に一時的に准勅祭社の制が定められた際にはその12社のうちの1社に列した(うち都区部にある10社は現在東京十社を名乗る)。
現在の由緒では、文治3年(1187年)に源頼朝が安房国の洲崎神社を勧請して創建され、元応元年(1319年)には稲荷(宇賀之売命)を、文明10年(1478年)には牛頭天王を勧請したとする(後述の異伝も参照)。
江戸時代は稲荷社や品川大明神などと呼ばれていた。
京急線の車窓からも良く見える。
一ノ鳥居は竜の彫刻が施された石鳥居。竜の彫刻がある石鳥居は杉並区の高円寺と馬橋稲荷神社にもあり、合わせて東京三鳥居とも称する。高円寺と馬橋稲荷神社の鳥居は品川神社の鳥居に倣ったもの。
富士塚(品川富士)は高さ15mで東京最大の富士塚。明治2年に築造され、国道建設に伴い大正11年に移築。品川区指定有形民俗文化財。
常に登拝可能。また富士塚の背後には浅間神社の社殿がある。
二ノ鳥居の奥には、三ノ鳥居と拝殿が続く。
RC造の社殿は昭和39年建立で、拝殿・幣殿・本殿を連結した権現造。
神楽殿は大正期の建立。
富士塚の裏には浅間神社がある。
御嶽神社は木曽御嶽山信仰の社。
砲弾型の忠魂碑は明治43年建立。
阿那稲荷社は上社と下社に分かれている。
下社の社殿内には3棟の小祠と、一粒萬倍の泉がある。一粒萬倍の泉は、ここで銭を洗うと万倍になるとされる霊水。
拝殿の脇から本殿の後ろの通路を抜けると、板垣退助とその夫人などの墓がある。品川区指定史跡。
ここはかつては高源院の敷地であった(昭和11年に世田谷区の烏山に移転)。
創建伝承・祭神の異伝と、品川貴船神社との関係
前述のように、品川神社の現在の由緒では、文治3年(1187年)に源頼朝が現・千葉県館山市の洲崎神社(天比理乃咩命)を勧請して創建され、元応元年(1319年)に稲荷(宇賀之売命)を、文明10年(1478年)に牛頭天王(素盞嗚尊)を勧請合祀したとする。主神は天比理乃咩命である。
また、江戸時代の地誌『江戸名勝志』では、牛頭天王は永享年間(1429-1441年)に勧請されたもので、洲崎明神または品川明神とも称するとする。
一方、江戸幕府編纂の『新編武蔵風土記稿』では、当社は稲荷社であるとし、相殿に祇園・貴布禰を祀り、さらに東照宮をあわせて品川大明神と称するとする。
また品川神社編纂の『品川と品川神社年表』には、安政5年(1855年)に北品川稲荷から品川大明神へと幕府に改称を願い出たとしており、江戸時代には当社は稲荷社と認識されていたようである。
『新編武蔵風土記稿』によると、稲荷は文治3年(1187年)の、牛頭天王(祇園)は文明10年(1478年)の勧請で、貴布禰の勧請年は不詳であり、主神3柱の例祭は、稲荷は旧暦2月の初午、祇園の祇園祭は6月7日、貴布禰の貴布禰祭は9月9日であったとする。つまり、6月上旬に開催される現在の例大祭は、「北の天王祭」の異名の通り、素盞嗚尊の祭礼である。
『新編武蔵風土記稿』では、9月9日の貴布禰祭では、品川の枝郷である三ツ木に鎮座する貴布禰社(現在の品川貴船神社)に神輿を送りそこから品川神社へ渡御する、とある。また同書の貴布禰社(品川貴船神社)の項では、貴布禰社は現・荏原神社の旧鎮座地に建てられた神社で、神体は通常は現・品川神社に安置し、例祭日の9月9日に神輿で奉遷して祭祀した、とある。なお、現在の品川神社の祭神には、貴布禰明神に相当する神は無い。
例大祭
当社の例大祭は6月上旬で、毎年、土曜日には町神輿の連合渡御が、日曜日には宮神輿の渡御が行われる。この行事に関する詳細は「品川神社 例大祭」の記事を参照。
江戸時代は、当社は東海寺の鎮守となっていった(この東海寺は明治維新で廃寺となり、現在の東海寺は、その子院が名跡を継承したもの)。
旧東海道品川宿には他に、善福寺、法禅寺、寄木神社、東海寺、清光院、荏原神社、海徳寺、願行寺、本光寺、常行寺、長徳寺、天妙国寺、品川寺、海雲寺などがある。